
第2回 ある中堅翻訳者の没落
真っ暗なトンネル
ここは富士山7合目の山小屋。時刻は午前1時。登山通訳ガイドとして滞在中だが、悪天候のため山頂へ向かわず、早朝から下山することが決まった。一旦起きて装備し終えたあとの決定で、ゲストと自分の無念もあって眠れそうにないため、2年前の話を書くことにする。
2017年の6月初旬。欧州サッカーニュース翻訳をメインにしていた僕は、シーズン終了とともに愛犬ベックを連れて恒例のノマド旅へ出た。PCと小型デスクを車に積み、時に停車して仕事しながら4度目の北海道を目指す。特にプランはない。Facebookにどんな写真をアップしようか。南の方は未踏破だから、襟裳岬に立つベックを撮って「エリモの夏は何もない夏だワン」というのはどうだろう?
東京を出て2日目の夕方、福島から宮城に入ったところでスペインからスカイプ電話が着信する。サッカーニュースサイトの責任者だ。営業を終えた野菜の直売所に車を停め、一抹の不安を覚えながらかけ直す。嫌な予感を絶する凶報であることが、重い声でわかった。「アジア言語のサイトを6月いっぱいで閉鎖することになった。急で申し訳ない」。突然、暗いトンネルに入ったかのようだった。フリーランスになった直後から15年ほど続けてきた仕事だ。日本語サイトを少数の翻訳仲間と一緒に回し、毎月の収入の半分弱を占めるに至っていた。それが来月から消滅してしまう。
北へ向かうのをやめ、かといって引き返すでもなく、進路を西へ変えた。帰って家族の前で平静を装う自信がなかった。山形を横切って新潟の湯沢に持つ作業部屋にこもり、今後について考えようと思った。その晩をどう過ごしたのか、まったく覚えていない。
映像化というリスク
思えば予兆はあった。このご時世、文字より映像、ブログよりYouTubeだ。通信環境が整うにつれ、ニュースサイトでも動画が多用されている。サッカーサイトも御多分に漏れず、というより、その傾向が顕著に表れつつあった。
大きな仕事の一つが、試合のレポート記事の翻訳だった。「クロスに合わせてゴールエリア左端からヘディングシュート。緩やかに弧を描いたボールはキーパーを越え、ファーサイド上隅のネットに吸い込まれた」のようにプレーに忠実かつ臨場感のある訳を心がけていた。しかし試合のハイライト映像が見られるなら、得点シーンを文字で読もうとは誰も思わないだろう。ならば、わざわざ日本語サイトを作る必要はない。AI(人工知能)の進化が翻訳業に及ぼす影響が盛んに議論されているが、その前に映像化というリスクが存在することを、身をもって知った。
これはニュースサイトに限った話ではないように思う。例えばマニュアルだって説明書より説明ビデオの方が、ずっとわかりやすい。映像化に伴い字幕や吹替の翻訳が必要になるとしても、映像情報に置き換わるぶん、必要になる翻訳量は減るはずだ。