• 翻訳

2024.04.16 UP

英語の学び直しから始め
50代で翻訳者デビュー/唐木田みゆきさん

英語の学び直しから始め<br>50代で翻訳者デビュー/唐木田みゆきさん

季刊誌『通訳翻訳ジャーナル』の連載、翻訳者リレーコラムをWebでも公開しています!
さまざまな分野の翻訳者がデビューの経緯や翻訳の魅力をつづります。

もう一度勉強をしたい。3人の子育ても一段落して外で働いてみたくなり、近所でパート勤めをはじめて5年。それなりにいそがしい毎日でしたが、何かが足りない、ほんとうにやりたいことをしたい、という思いが胸の奥でくすぶっていました。日々の暮らしとはちがう世界にふれたい、別の自分を探したい、という欲求はだれにでもあるのではないでしょうか。

わたしの場合、その手段は英語の勉強でした。学校で学んだ記憶は曖昧でしたが、昔から英語はきらいではなかったのでとっつきやすかったのです。手はじめに大型書店で洋書を買い、紙の辞書をめくりながら少しづつ読んでいきました。まだ自分のパソコンを持っておらず、グーグルもアマゾンも知らなかったころです。もともと翻訳ミステリーが好きで、根気だけをたよりに読み進めた本は、たしかスー・グラフトンのキンジー・ミルホーン・シリーズ『B Is For Burglar』(『泥棒のB』)だったと思います。知らないことばの海でもがいている時間はつらいけれど新鮮でもあり、やがて母語で読んだときと変わらない力強さで物語が立ちあがってきたときのあの感覚は、いまでも忘れられません。

翻訳を一生の仕事にという夢に向けて

翻訳学校の広告を目にして、翻訳を一生の仕事にできたら、と夢のようなことを考えはじめたころにはすでに四十歳を過ぎていました。ともかくはじめてみようと、入門コースを受講して文法を基礎から学び直し、その後初級、中級コースを経て、越前敏弥先生に師事。少し下訳をさせてもらうところまでなんとか漕ぎつけたものの、自分の甘さに気づいたのはそこからです。下訳では語学力不足と文章の拙さが露呈し、授業では誤訳に冷や汗を流し、考え抜いたあげくの珍妙な訳語にあきれられるのはたびたびのこと。じつに〝翻訳家への道は天竺よりも遠い(同門の先輩の言です)〟ものでした。

単なる夢に終わるのかもしれない。それでも一度もやめようと思わなかったのは、好きな勉強をつづけることが自分の一部となり、よりどころとなってしまったからです。ここまで来たらもうあきらめ方がわからないというか、取り憑かれているというか。

そもそも日本語と語系も背景文化もちがう外国語を訳して作品の世界観を過不足なく伝えるというのは、たとえて言えば、形も性質もちがう、デコボコでザラザラのふたつの岩がピタリとつく接着面を延々と探しつづけるようなもので、もっといい手はないか、もっと正解に近づけないか、考えたらきりのない世界だと思います。そんな意気込みで鼻息荒く原文に挑んで失敗することもあれば、少しうまくいって褒められることも(3年に一度ぐらいですが)ありました。

けれどもがむしゃらに修行に励んでいたわけではなく、じつはいたってマイペースな生徒で、いつか自分の訳書を出せたらいいなと中途半端な希望を持ちつつ、無理はせずに家庭生活や老親の介護などに軸足を置いていました。真剣にプロをめざしている仲間から見れば、つかみどころのないヘタレだったと思います。

50代後半になり
一冊丸ごと訳す機会が

そして十数年が過ぎ、還暦に手が届く歳になりましたが、こんな亀の歩みの弟子にも師匠は独り立ちのチャンスをくださいました。紹介された出版社からいただいた初仕事は十九世紀のニューヨークを舞台にした歴史サスペンス(邦題『訴訟王エジソンの標的』)。ポンと一冊まかされたときは豪速球が飛んできた心地がしたものです。いま思えば、修業時代の下訳はやさしいキャッチボールでした。その後もおもしろい小説を訳す機会にめぐまれ、この先も力のおよぶかぎりおもしろくて一風変わった物語を翻訳したいと思っています。

ここまで歩んでこられたのは、長年ボールを投げつづけてくださった師匠のおかげとしか言いようがありません。つけ加えるとすれば、そこそこ健康で自分の好きな勉強をつづけられ、家族の支えがあったからでしょうか。平凡なことだと思われるかもしれませんが、こうした幸運を年々噛み締めています。

※ 『通訳翻訳ジャーナル』2024年春号より転載

唐木田みゆき
唐木田みゆきMiyuki Karakida

翻訳者。主な訳書に『傷を抱えて闇を走れ』(イーライ・クレイナー)、『殺人記念日』(サマンサ・ダウニング)、『ゲストリスト』(ルーシー・フォーリー)、『生物学探偵セオ・クレイ 森の捕食者』(アンドリュー・メイン)など。いずれも早川書房より。