第10回/最終回 通訳人生、迷い道がいつか来た道に

通訳者になった理由はふたつ

その私がそれでも通訳者になったのはなぜか。ひとつには離婚によってシングルマザーとなったことは第1回でも触れたとおりですが、親子3人の生活費を稼ぐ必要に迫られたこと。離婚して数年間は、故郷の名古屋に住んでいました。まとまった収入を確保するには東京で仕事を見つけなくてはと思ったのもこの頃です。

それともうひとつは、なんと言うか、仕事のほうから寄ってきたからです(笑)最初の通訳の仕事は、子供の英語プレイグループ(国際結婚の家族がほとんど)で出会ったママ友に頼まれたこと。バレーボールのW杯で来日した外国人派遣団に付き添う仕事でした。

男子大会は大阪で、女子大会は名古屋だったのですが、15人などまとまった人数の代表団に一定期間通しで付ける通訳者の人数を確保するのは、当時名古屋では容易ではなかったようです。私はそれまで通訳として働いていたわけではないので、担当することになった相手は発言の機会が少ないメディカルデリゲート(ドーピング検査がメイン)でした。

その時、現役のプロの通訳者が自分がいるのと同じ空間で、テキパキと発言を訳していくのを目にし、感動しました。ふうん、通訳ってこういう仕事なんだ…。奥が深そうだな。オン=オフのメリハリがあって、そこが自分に合っているかも…。

W杯の1週間が終わって家に帰って一息つくと、そこには不完全燃焼の自分がいました。改善の余地だらけ、でも不思議と落ち込みも滅入りもない、それどころか自分に対する悔しい気持ち、どんどん意欲が増してくるのを感じました。

それまで飽きっぽかった私が、はじめてガツンとフォーカスすべきものを見つけた瞬間でした。これが、通訳への道の始まりでした。そこからは、無我夢中で通訳をやってきて、気がついたらそういう形になっていた。

東京で就職活動をし、インハウスの通訳者になったのが2001年。2007年の渡英まで、東京・千葉で外資系(当時は内資&外資の合資ベンチャー)インハウス通訳翻訳者として働き、2007年に独立系のビザを取得して、晴れて渡英できました。

こうしてイギリスで通訳をするようになって思うのは、通訳者として船出した16年前には予想だにしなかったところに自分が立っていること。人生何が起きるかわからない、案外捨てたものではないかも知れないな、ということです。

なぜなら、イギリスに来る前から通訳の仕事をしていたけれども、それにしても、こちらに来てから学んだことの多いこと。そして、大きいこと!

人生死ぬまで勉強 - 言い古されたことばではありますが、知識もそして意識も、多面的になり、掘り下げられていく。そして気付けば、昔よりも立ち直りが早くなっている自分がいます。

「まあ、命まで取られることはないよ!」なんて、苦しくてもそれが頭の中だけだったら、時間がもったいない、と思うようになりました。ずうずうしくなっただけかもしれませんが(汗)それも通訳の仕事が教えてくれたこと。だって、泣いても笑っても一度きりの人生ですから。

誰のことばだったか残念ながら忘れてしまいましたが、(通訳者に)「なるべき理由」も「ならざるべき理由」も、新聞の同じページに見つかるでしょう。ならば、一般的にどう言われているか、左右される必要はないと思うのです。

理性は大事だけれど、心の声を受け止めることも同じくらい大切。そして、心の声が、一見、道理でないように思えるときもあると思います。だから心の耳をすませる練習を積んでおくことも大切で、心の声は大声ではないから、日頃の喧騒のなかで聞き取らないまま月日が過ぎていってしまいがち、だと思います。

自分に正直に、素直に、40代だろうと、50代だろうと、女性だろうと、男性だろうと、子供がいようがいまいが関係ありません。「英語の勉強をやりなおしたい」とか「通訳者になりたい」とか。これまで失敗しているとしても、失敗しなくなるまでやればいいので(笑)。通訳に限ったことでは決してありませんが、新たな挑戦は、あなたの人間としての幅を確実に広げてくれることでしょう。

質問やご相談などありましたら、気軽にメールでご連絡ください。これまでお読みいただいた皆様、投稿のあいだが空いたりもしましたが、懲りずにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

ロンドンの冬、近所の公園で、寒い時は落ち葉も凍っている。

ロンドンの冬、近所の公園で、寒い時は落ち葉も凍っている。

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