第10回/最終回 通訳人生、迷い道がいつか来た道に

このコラムも今回で最後になりました。これまで1年余り、お付き合いいただき、本当にありがとうございました。最終回は、渡英10年という節目を迎え、読者の皆さんにも身近に感じていただける箇所があればと思い、これまでの通訳人生を振り返ってみたいと思います。

他人の経歴は、迷いがないように見えるもの

静かに思いを巡らせてみると、いくつか人生の岐路といえるポイントが見えてきました。自分以外の人の経歴が書かれているものを読むと、計画通りに人生を航海しているように見えませんか?

計画通りだったのかも知れませんが、案外、本人的には不安の中で手探りで、もがいているなかで今に行き着いたのかも知れません。

私は若い頃に結婚・出産し、そのあとで子連れ留学し、離婚しました。留学と結婚出産が、あるべき順番として、逆かもしれません。名古屋から出て、東京で仕事を得て上京したのも離婚してからです。順当に考えると、大学で上京→留学→結婚出産が妥当だろうと思うので、ちょうどその真逆の道順で人生を進んできたことになります。

それなのに、私の逆行の経歴ですら、文字にすると、道なりに歩いてきたように見えるから不思議です。なぜこんな話をしたかというと、はたから見た景色と、本人に見えている景色は、想像以上に違うことがあるから。

通訳者になるまでどんな紆余曲折があったか

最初の転機は、高校生の時によくある海外ホームステイに行ったとき。そのときの体験が自分にとってあまりに肯定的で前向きでした。目からウロコ。自分を受け入れ、開放することができました。

帰国後は音楽の道を潔くあきらめ、英語の道に進もうと決心。一日も早くアメリカに行きたい、アメリカの大学に行って、移り住みたい、と思いを熱くしました。当時人気だった宮本美智子さんの本を夢中で読み漁った覚えがあります。

次の大きな転機は、結婚と離婚でした。元夫の出身はベルファストだったので、里帰りといえば北アイルランドです。米国に向いていた心は、次第に連合王国に寄り添うようになりました。結婚する前は完全にアメリカ寄りのアクセントでしたが、結婚後はベルファスト訛りが強くなり、イギリスに暮らす今は、Rの弱い(アイルランドはRが強い)アクセント、と英語も移り変わっていきました。土地に適応するために意識的に変えた部分もありますが、毎日耳にしているので自然に感染(うつ)りますよね。

中学校で英語の勉強が始まってから、ずっと英語は好きで得意科目でしたが、通訳者になりたいと思ったことはありませんでした。通訳者や翻訳者など語学を生業にしている人が身の回りにいなかったことは大きな原因かも知れません。

しかし、通訳という仕事がどんな仕事なのか、外国語を話すこと以外にイメージが湧かなかったので、ピンとこなかったのだと思います。もうひとつは、通訳者になるためにはすごく勉強しないといけないし、なったらなったで常に受験勉強のような生活…。英語の先生から聞いたのか、なにか、どこかで耳にしたのだと思います。それで「ずっと受験?私にはとても無理」と思った覚えがあります。

Savoy Hotelの玄関:ポップス界の有名プロデューサーの取材通訳の仕事で。

Savoy Hotelの玄関:ポップス界の有名プロデューサーの取材通訳の仕事で。

ページ: 1 2