季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
日本語の感性をたいせつに
今回も課題文に取り組みます。第13回の続きからはじめますので、まだ読んでいない方はこちらも読んでみてくださいね。
第13回 日本語の感性をたいせつに【前半】
訳してみよう! 課題文
〇課題文
I thought again about last night.
So about 15 hours earlier, after Officer Roland Piper fell to the ground with a moan, I put my shoes back on and continued to work. I slid the collapsed police baton back into my purse and then sprinted across the street to the entrance of the Gold Club. I ducked in a brick alcove near some construction supplies, knowing what was going to happen in a few seconds.
There was a creaking sound.
The door to the Gold Club opened up.
A head poked out. Took a quick scan. Missed me. Ducked back inside.
Hurry up, I thought, hurry up. The cops are coming.
The head poked out again. A whisper.
My unzippered purse was in my hand. I put my free hand inside, curved it around a familiar and comfortable object.
Movement. Two men ducked out carrying small black knapsacks in their hands. They started sprinting up the sidewalk, away from me, and――
I stepped out, dropped the purse, hands now cradling a Smith & Wesson 9 mm pistol, and I shot them both in the back.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンに移りましょう。生徒訳例を紹介したあと、解説を加えていきます。
③ アクションシーンも論理的に―自分の翻訳に責任を持ちましょう
〇課題文
My unzippered purse was in my hand. I put my free hand inside, curved it around a familiar and comfortable object.
Movement. Two men ducked out carrying small black knapsacks in their hands. They started sprinting up the sidewalk, away from me, and――
I stepped out, dropped the purse, hands now cradling a Smith & Wesson 9 mm pistol, and I shot them both in the back.
〇生徒訳例
わたしはファスナーがあいたバッグを手にした。自由なほうの手を中に入れ、なじみのある心丈夫な警棒のカーブに沿ってその手を曲げた。
動きがあった。二人の男が小型の黒いリュックサックを持って、ひょっこり出てきた。そして歩道を駆け上がって、わたしから離れていく――
わたしは外へ出てバッグを下に落とした。両手でスミス・アンド・ウェッソンの9ミリ拳銃を構え、二人の背中に向けて発砲した。
③ 解説
第13~14回を通じ、最大の読みどころです。緊張感をもってスピーディーに訳さなくてはなりませんが、たいせつなのは、やはりストーリーに矛盾が出ないよう、まずはしっかり読みとることです。その観点からこの訳文を読むと、最初に警棒に手を触れたらしいのに、最後に拳銃を取り出しているのがどう考えてもおかしいです。前回、確かに警棒のことを“a comforting object”と呼んでいましたが、また同じものを指すなら、ここではtheがついているはずです。しかし冠詞はaですから、新たに別の武器である可能性を考えるべきです。「警棒」と決めつけてはいけません。
その心丈夫な物体とは、どうやら拳銃のようですが、「カーブに沿って手を曲げた」という表現はみるからに不自然で、動作がイメージできません。英和辞典では“curve one’s hand around~”はイディオムと見なされていないらしく、記載がありません。けれどもインターネットで調べてみると、ある辞書サイトに、“curve around”という異なる表現が取りあげられていて、「カーブに沿って曲がる」(つまり「何かのまわりを曲線を描いて進む」)という語義が出ていました。この生徒さんはこれを参考に、「曲がる」を「手を曲げる」と変換して切り抜けようとしたのかもしれません。しかし読者に伝わらない表現は無意味です。このような場合は、実際に逐語訳通りに動作をしてみるにかぎります。拳銃をイメージし、それを取り囲んで(=around)手をカーブさせてみましょう。ふつう、その動作を日本語でなんと言いますか。「握る/つかむ/てのひらで包み込む」などと表現するのではないでしょうか。
そのあとのduckの訳も問題です。前に「ひょいと」「さっと」を使ったので、今度は「ひょっこり」にしたのでしょうが、これは思いがけず誰かと出会ったときなどに使う語です。何が起きるかわかっていたエリカがそんなふうに思ったはずがありません。それに、どことなくのどかなイメージの語なので、違和感をおぼえるはずです。なんだかしっくりこないと思ったら、国語辞典で意味と用例を確認しましょう。そのひと手間が明日につながります。
表に飛び出した強盗たちは、歩道を「駆け上がった」わけではなく、単に駆けていったのです。このupは、前回出てきた“eased his way up a narrow alleyway”のupと同じで、その道を通過することを表します。さらに前にdownも同じ意味に使われていたことを思い出してください。
そのあとのaway from meを「わたしから離れる」と訳すと、出発点が「わたし」になってしまいます。文脈をふまえれば、もともと少し離れていたわたしとの距離がさらに広がっていく、つまり、どんどん遠ざかっていくようすを言っていると考えるのが妥当です。
そのふたりに対し、エリカは、「背中に向けて発砲した(=背中を狙って引き金を引いた)」のではなく、“I shot them both in the back”と言い切っています。弾を命中させたのです。小説などで読んだことのある表現をなんとなくあてはめるのではなく、自分が何を読みとり、何を書いたのか、はっきり自覚していなくてはなりません。自分の翻訳に責任を持ちましょう。
☆講師訳例
わたしはチャックをあけたバッグを片手でつかんだ。もう一方の手を中に突っ込み、おなじみの心丈夫な代物を握りしめる。
動きがあった。ふたりの男が飛び出してきた。それぞれ小さな黒いナップサックを携えている。と、彼らはいきなり走りだした。一目散に歩道を遠ざかっていく――
わたしは進み出て、バッグを下に落とすと、九ミリ口径のスミス&ウェッソンを両手で構え、ふたりの背中を撃ち抜いた。
なんと衝撃的な展開でしょう。いったいエリカは何者なのか。なんの目的でこんなことをするのか。謎は深まるばかりです。次回はこの続きを訳します。
英日翻訳とは、横文字で書かれた英文を、まったく構造の異なる日本語という縦書きの言語で語り直す試みです。一から日本語で書いたような自然な文章に仕立て上げるのが理想ですが、それはとても難しいことです。それでもわたしは、できるかぎり原文の意味を反映しつつ、翻訳臭のない「ほんもの」の日本語を使って訳し、場面の空気感や登場人物の心理、息づかいをリアルに表現したいと願っています。原文に寄り添いつつも、原文にとらわれずにのびやかに日本語文を綴る境地と言ってもいいかもしれません。愚直にそこをめざして努力していこうと思います。おたがいに、こつこつがんばりましょう。
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
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〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
第4回 調べ物をしっかりと【後半】
第5回 語り手になりきる【前半】
第6回 語り手になりきる【後半】
第7回 長めのせりふに挑戦【前半】
第8回 長めのせりふに挑戦【後半】
第9回 登場人物の五感をリアルに表現する【前半】
第10回 登場人物の五感をリアルに表現する【後半】
第11回 英和辞典だけに頼らず、事実確認を【前半】
第12回 英和辞典だけに頼らず、事実確認を【後半】
第13回 日本語の感性をたいせつに【前半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。