季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
ひたすら原文に向き合い
日本語を書く時間を重ねる
翻訳学校で講師を務めて25年以上になります。学校に行かなくても出版翻訳家にはなれますが、教室で多くの仲間と切磋琢磨しつつ、議論をし、励まし合い、ともに成長する経験は何ものにも替えられません。それは講師にとっても同じです。多様な翻訳に触れて、自分の翻訳観を見つめ直し、修正するチャンスになるのですから。
翻訳学校は、コツや手順をパッケージにして伝授するところではないのですが、どうも一般にはそう思われているような気がして、残念でなりません。わたし自身も翻訳学校に通いましたけれども、そのようなことを教わった記憶はありません。少なくとも出版や映像など、感性が問われる翻訳には、決定版のノウハウなどはなく、ただひたすら原文に向き合い、日本語を書く時間を重ねるよりほかに力をつける方法はないのです。もちろん、原文を的確に読み解くことはたいせつですので、学校に行けば、ある程度英語の指導を受けることはできます。しかし最終的には、講師から適宜助言をもらいながら、みずから成長し、訳者として自立していく場なのだと、わたしは思います。だからこそ、個性豊かな卒業生が活躍しているのでしょう。宣伝するわけではありませんが、体験授業や授業参観の機会があれば、学校をのぞいてみてはいかがでしょうか。
訳してみよう! 課題文
今回もブレンダン・ドゥボイズ作の短編“Ride-Along”から。ジャーナリストのエリカは、ローランド・パイパー巡査の夜間パトロールの密着取材を続けます。彼の担当区域は、さびれて治安のよくない一帯です。ローランドは街の隅々に鋭く目を配りながら、彼女の取材に応じます。ホームレスや犯罪者に不法占拠されたビルや、火災で焼け落ちた建物の並ぶ通りを走るうち、やがて夜は更けていきます。
〇課題文
Now it was the start of a new day, and my legs were getting cold. I watched the light blue numerals of the dashboard clock flip, and with each change of the number, it seemed like the air in the cruiser was getting thicker and harder to breathe.
Then it clicked over to one in the morning. I yawned. Roland said, “You want to go back to the precinct, head on home?”
“No, I’m okay,” I said.
“Whatever,” Roland said. We were driving past another burnt-out collection of tenements and he said, “There’s a story for you. Someone should trace the deeds of those properties, see who owns what. Bet if you dig enough, you’ll find that somebody’s making a lot of money off those arsons—”
The radio crackled to life. “Unit 19.”
Roland picked up the handset. “Unit 19, go.”
“Unit 19, 14 Venice Avenue, the Gold Club. Robbery in progress. Other units responding. Caller said robbers appear to be armed.”
Roland said, “Unit 19, responding.”
He replaced the hand mic, brought the cruiser to a shuddering halt, and then made a U-turn and flipped on the overhead lights. He punched the accelerator and I felt myself thrust back against the seat as we roared down the center of Market Street.
“What’s the Gold Club?”
“Jewelry store. Only one in this area. I know them … got a large inventory.”
“No siren?” I said.
“Nope,” he said. “Sirens just let them know we’re coming.”
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンに移りましょう。英文を少しずつ区切って示し、生徒訳例を紹介したあと、解説を加えていきます。
① 一瞬のひらめきに飛びつかない
〇課題文
Now it was the start of a new day, and my legs were getting cold. I watched the light blue numerals of the dashboard clock flip, and with each change of the number, it seemed like the air in the cruiser was getting thicker and harder to breathe.
Then it clicked over to one in the morning. I yawned. Roland said, “You want to go back to the precinct, head on home?”
“No, I’m okay,” I said.
〇生徒訳例
新しい一日のはじまりだ。わたしの脚は徐々に冷えてきた。ダッシュボードのパタパタ時計の水色の数字を見つめていると、数が変わるたびに車の中の空気が濃く、息苦しくなっていくような気がした。
やがてそれは朝の一時を表示した。わたしはあくびをした。ローランドはきいた。「警察署へ戻って、家に帰りたいかい?」
「いいえ。だいじょうぶ」とわたしは言った。
① 解説
「新しい一日のはじまり」というと、朝日の輝く明るいイメージがしますね。しかしいまは夜間パトロールの最中で、脚が冷えてくるような時間帯です。午前零時をまわったと言っていますから、それらしい雰囲気の表現を選びましょう。第2段落の「朝の一時」も、まちがいではありませんが、日本では一般的にはこのように言わないはずです。登場人物の感覚をリアルに感じて表現しましょう。
また、パトカーのダッシュボードに「パタパタ時計」がついているとは(たとえものすごく古い車だとしても)考えにくいと思います。flipは「ひっくり返る」意ですが、ここでは数字が「(すばやく)切り替わる」ようすを表しています。さらにこの生徒さんは、「知覚動詞(watch)+目的語+動詞の原形(flip)」、つまり、「~が~するのを見つめる」という基本的な構文をとらえ損ねてしまったようです。パタパタ時計のイメージがぱっと頭に浮かび、それに惑わされてしまったのかもしれません。一瞬のひらめきに飛びつくのではなく、構文ミスはないか、合理的な文が書けているかどうか、少し時間をとって考えましょう。
☆講師訳例
そうこうするうちに日付が変わった。わたしは脚が冷えてきたのを感じながら、ダッシュボードの時計のライトブルーの数字が替わるのを見ていた。ひとつ数が進むごとに車内の空気が重たくなり、息苦しくなっていくようだった。
やがて時計が午前一時を告げた。わたしはあくびをした。ローランドが言う。「分署に戻って、まっすぐ家に帰るかい?」
「いいえ、だいじょうぶ」
② 想像力を働かせ、光景が目に浮かぶような表現を
〇課題文
Whatever,” Roland said. We were driving past another burnt-out collection of tenements and he said, “There’s a story for you. Someone should trace the deeds of those properties, see who owns what. Bet if you dig enough, you’ll fi nd that somebody’s making a lot of money off those arsons—”
〇生徒訳例
「まあどうでもいいけど」ローランドが言った。わたしたちは、別の焼け落ちた家屋の寄せ集めを通りすぎていた。すると彼が言った。「きみに話がある。誰かがこの不動産譲渡証書をたどって、誰が何を持っているか確かめるべきだ。十分に掘り返せば、誰かがこれらの放火から大金を手に入れていることがきっとわかるはずだ」
② 解説
英文解釈上の誤訳はありませんが、全体にぎこちないせりふになっています。まず気になるのは、「別の焼け落ちた家屋の寄せ集め」です。確かに原文にはcollectionと書いてありますが、焼け落ちた家屋を「寄せて集める」ことはできないので、不自然な感じがしてしまいます。一軒の火災から延焼が起きたか、単に焼けた家が多いか、どちらかだろうと思います。anotherがあるので、前にもそのような場所を通ったことがわかります。単語をただ置き換えて並べるのではなく、エリカの目に映った建物群の残骸、焼け跡を想像し、読者がありありと思い浮かべられるように表現してください。
ローランドのせりふでは、“There’s a story for you.”のforを読み落とさないように。「きみに話がある」では、エリカに話したいことがある、という意味になってしまいます。ここでは、きみの「ための」「ストーリー」がある、つまり、記事のネタを提供してやろうと言っているのです。
☆講師訳例
「好きにするがいい」ローランドは言った。わたしたちはまたもや、火災で焼けた建物の並ぶ一角にさしかかっていた。「ひとつ、教えてやろう。ここらの不動産はな、権利関係を調べて、誰がどれを持っているか突きとめるといいんだ。よくよく調べれば、こういう放火事件でがっぽり儲けているやつがいるってことがわかるぞ」
いかがでしたか。第10回はこの続きからはじめます。次回も一緒に課題文について考えましょう!
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
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〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
第4回 調べ物をしっかりと【後半】
第5回 語り手になりきる【前半】
第6回 語り手になりきる【後半】
第7回 長めのせりふに挑戦【前半】
第8回 長めのせりふに挑戦【後半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。