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2023.04.26 UP

第1回 ストーリーを語ろう【前半】

第1回 ストーリーを語ろう【前半】

季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。

“物語”を届ける

出版翻訳とは、文字どおり出版書籍を翻訳すること。辞書さえ引けば誰にでもできる英文和訳とは異なり、不特定多数の人に“物語”を届けることを目的とします。

それは小説でもノンフィクションでも変わりません。著者が思いを込めて書いた物語を、訳者が語り手となり、日本語の読み物に仕立てるのです。出版翻訳の勉強をはじめるにあたっては、まず、つねに語り手であろうとする意識を持つことがたいせつです。

と言われても、初心者のかたは、ぴんと来ないかもしれませんね。とりあえず訳してみましょう。

以下の演習では、わたしの生徒さんひとりに登場してもらいます。少しずつ原文を区切りながら、そのかたの訳例を紹介し、そのあとで解説を加えていくことにします。最後にわたしの訳例も載せますので、参考にしてください。連載第1回では、課題文の前半に取り組みます。

訳してみよう! 課題文

課題に取り上げる作品は、米国のミステリ作家、ブレンダン・ドゥボイズ(Brendan DuBois)の短編、“Ride Along”です。

主人公はエリカという名のフリージャーナリスト。彼女が警察の夜間パトロールを密着取材する物語です。緊迫感あふれるタッチで都会の闇を描き、意外な結末へと読者を導く傑作ですが、今回はその冒頭部分、取材に出かけるエリカが夫と言葉を交わす場面を訳します。

まずは読んでみて、ふたりの印象を心に刻みましょう。その原作のイメージを読者に伝えることを意識して、ストーリーを語ってみてください。

〇課題文
 The night I went to work, I gathered up my reporter’s notebook and heavy purse and then went to check on my husband, Peter. My sweetie-pie was sitting up in bed, his left leg in a cast. The bruises about his eyes were beginning to fade, though they still had a sickish green-yellow aura. The television was on and a cell phone was clapsed in his right hand.
 “You doing okay?”I asked.
 He grinned, his teeth showing nicely through his puffy lips. “Like I’ve been saying, as well as could be expected.”
 I kissed his forehead. “You okay moving around by yourself?”
 “Of course.”
 “Good,”I said. “But you be careful. You go and break your other leg, that means you’re stuck in bed. And I don’t think this whole ‘in sickeness and in health’covers bedpan duty.”
 He moved up against the pillows, winced. “You could have warned me earlier.”
 “But you wouldn’t have listened.”
 “And why’s that?”
 “Because you’re madly, hopelessly, and dopily in love with me, that’s why.”
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., ▼ The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)

では、レッスンをはじめましょう。ご自分の訳と比べながらお読みください。

① 時の流れを意識する

〇課題文
 The night I went to work, I gathered up my reporter’s notebook and heavy purse and then went to check on my husband, Peter. My sweetie-pie was sitting up in bed, his left leg in a cast.

〇生徒訳例
 仕事に行った夜、わたしはリポーター用ノートと分厚い財布をかき集めて、夫ピーターのようすを見にいった。いとしのだんなさまはベッドに座っていて、その左足にはギプスがはめられていた。

① 解説
訳例の第1文は、英文和訳としては問題ないように見えますが、要約してみると、「わたしは仕事に行った夜に夫のようすを見にいった」という論理的におかしなことが書かれています。全体の文脈から判断すると、彼女はまだ家にいることは明らかなのに、仕事に行って、それから夫の寝室に入ったとも読めてしまいます。過去形動詞 went を自動的に「行った」と訳すのではなく、その時点での登場人物の現実に即して―つまり、リアルタイムの感覚で―「行く」と表現しなくてはなりません。「その夜は仕事に行く予定だった」のように、ひとつの文として独立させてもかまいません。それだけでも臨場感がちがってきます。

次に、「ノートと分厚い財布をかき集めて」というのがひっかかります。昔、学生時代に、purse が「財布」という意味のときはがま口財布を指すと習った記憶がありますが、米国で purse と言えば、女性用の小ぶりのバッグのことです。そのバッグ1個とノート1冊(単数)のふたつだけを「かき集める」というのはおおげさでしょう。花を摘む(gather)ようにして、ノートを手にし、それからバッグを持ったのです。単に「手にとって」や「持って」だけでも、読者に原文どおりの動作を想像してもらうことができるでしょう。

sweetie-pie は、女性が夫や恋人を呼ぶときの愛称で、cutie-pie と言う人もいるそうです。「いとしのだんなさま」は誤訳ではありませんが、古めかしくて、主人公のイメージにも原語のレベルにも合っていません。しかし日本には、夫をこのように呼ぶ習慣がないのでむずかしいですね。わたしは「いとしのダーリン」にしましたが、これも古くさいかもしれません。何か名案があれば、編集部までお寄せください。

☆講師訳例
 仕事に行くその夜、わたしは取材用の手帳と重いバッグを手にとり、夫のピーターのようすを見にいった。いとしのダーリンは、左脚にギプスをはめた姿でベッドの上に座っていた。

② 視覚的イメージは自然な表現で

〇課題文
The bruises about his eyes were beginning to fade, though they still had a sickish green-yellow aura. The television was on and a cell phone was clasped in his right hand.

〇生徒訳例
目のまわりのあざは消えはじめていたが、まだ吐き気をもよおすような黄緑色のオーラを放っていた。テレビはついていて、携帯電話が彼の右手に握られていた。

② 解説
「黄緑色のオーラ」がなんだかわかりませんね。日本語の「オーラ」は、人の存在感などを指しますが、ここでは「後光」の意味で比喩的に使っているようです。あざは薄くなったが、そのまわりに、後光のように黄緑の色が広がっている。つまり、まだ皮下出血の跡が残っている、と言っているわけです。読者にイメージがしっかり伝わるように表現しましょう。

☆講師訳例
両目のあたりにできたあざは薄くなりはじめたが、そのまわりにはまだ、胸が悪くなるような黄緑色の輪が残っている。テレビがついていて、彼の右手には携帯電話が握られていた。

いかがでしたか。第1回では課題文の前半に取り組みました。連載第2回では課題範囲の後半に進みます。次回もぜひご覧ください!

講師 布施由紀子
講師 布施由紀子Yukiko Fuse

ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。