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2024.04.02 UP

第13回 日本語の感性をたいせつに【前半】

第13回 日本語の感性をたいせつに【前半】

季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。

日本語の感性をたいせつに

手は訳者にとってだいじな仕事道具です。しかしなにしろよく使うので、たびたび故障します。わたしも数年前、大部の作品を仕上げたあとに右手から肩にかけて痛みが出てパソコン作業が困難になったことがあります。1週間ほど手を休めてみましたが、いっこうによくならず、とうとう激痛で夜も眠れなくなりました。整形外科を受診すると、五十肩との診断。ほとんどの人が1年ほどで完治すると聞いてほっとしましたが、強い痛みがおさまるまではできるだけ右手を使わないようにと言われてしまいました。

しばらく原書や参考文献を読んで過ごすことにしたものの、まったくパソコンをさわらないわけにはいきませんので、左手で入力をはじめました。最初は不自由でしたが、続けるうちに、左手がキーボードの上を軽やかに舞うようになり、上達してきました。ただ、片手の作業は疲れます。そのうえ、少し時間がたつと、左手の負担を気づかうかのように、右腕がこわばって痛みだします。つくづく人体とは不思議なものだと思いました。いままで「腕一本」で食べてきたつもりでしたが、ほんとうは腕二本のコラボレーションに支えられてきたのだと気づかされました。同業の友人にも五十肩の経験者がいますので、隠れた職業病なのかもしれません。みなさんも、どうぞ腕や肩をおだいじに。

訳してみよう! 課題文

今回もブレンダン・ドゥボイズの短編、“Ride Along”から。前回は、ジャーナリストのエリカがローランド・パイパー巡査の夜間パトロールを取材中、宝石店the Gold Clubで強盗事件発生の報を受けて、現場付近へ急行する場面を訳しました。ローランドが銃を構えて店に近づこうとしたそのとき、エリカはパトカーからおりて、意外な行動に出ました。今回は、そのあとのことを、翌日になってエリカが振り返る場面です。

〇課題文
 I thought again about last night.
 So about 15 hours earlier, after Officer Roland Piper fell to the ground with a moan, I put my shoes back on and continued to work. I slid the collapsed police baton back into my purse and then sprinted across the street to the entrance of the Gold Club. I ducked in a brick alcove near some construction supplies, knowing what was going to happen in a few seconds.
 There was a creaking sound.
 The door to the Gold Club opened up.
 A head poked out. Took a quick scan. Missed me. Ducked back inside.
 Hurry up, I thought, hurry up. The cops are coming.
 The head poked out again. A whisper.
 My unzippered purse was in my hand. I put my free hand inside, curved it around a familiar and comfortable object.
 Movement. Two men ducked out carrying small black knapsacks in their hands. They started sprinting up the sidewalk, away from me, and――
 I stepped out, dropped the purse, hands now cradling a Smith & Wesson 9 mm pistol, and I shot them both in the back.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)

さらに意外なことが起きていたのですね。どうやらこのエリカという女、ジャーナリストなどではなさそうです。読んだときの驚きや興奮を読者に伝えるつもりで訳しましょう。

①文脈に合った表現を吟味しよう―辞書の言葉をそのまま借りないで

〇課題文
 I thought again about last night.
 So about 15 hours earlier, after Officer Roland Piper fell to the ground with a moan, I put my shoes back on and continued to work. I slid the collapsed police baton back into my purse and then sprinted across the street to the entrance of the Gold Club. I ducked in a brick alcove near some construction supplies, knowing in a few seconds what was going to happen.

〇生徒訳例
 わたしは昨夜のことをもう一度振り返った。
 だから十五時間ほど前、ローランド・パイパー巡査が唸って地面に倒れたあと、わたしは靴を履き直し、仕事を続けた。折り畳み式の警棒をまたバッグにすべり込ませ、それから通りをわたって〈ゴールド・クラブ〉の入口まで全力で走った。建設資材のそばの煉瓦壁のくぼみにひょいと入った。二、三秒以内に、何が起こるのかをわかっていたからだ。

① 解説
第2文冒頭のSoを「だから」と訳していますが、何の理由を説明しているのかわかりません。Oxford Advanced Learner’s Dictionaryでは、このようなSoは、“used to introduce the next part of a story”と説明されています。この文脈では、第1文が次の文を導き出す役目をしっかり果たしていますので、とくに逐語訳をしなくてもよさそうです。わたしの訳例ではまた異なった訳し方を工夫してみました。

一連の動作はまちがいなく訳せていますが、「ひょいと」が気になります。確かにduck(カモ)はそんなふうに頭を水に突っ込みますし、たいていの英和辞典でも「ひょいとかがむ」意味だと説明されていますが、人の動作を「ひょいと」と形容すると、どうしても軽妙でおどけた感じになってしまいます。この緊迫した状況にもエリカの心情にも合いません。また、「建築資材のそばの」も、「建築資材」とはなんなのか、そのそばとはどんな状況なのかがわかりませんので、読者が具体的にイメージできるよう工夫する必要があります。ここは想像力を働かせましょう。

最終行のwhat以下は、訳としては「何が起こるか」でもかまわないのですが、意味としては「これから何が起ころうとしているか」という近未来を表すことを念頭に置いてください。そうすると、knowing は、「(隠れたあとに)知った」のではなく、「知っていた(から隠れた)」と解釈するのが自然であることに気づくはずです。このあとの展開と考え合わせても、そのほうがよさそうです。

☆講師訳例
 わたしはもう一度、ゆうべのことを思い返した。
 というのはつまり、十五時間前にローランド・パイパー巡査がひと声うめいて地面に倒れたあとのことだ。わたしはまた靴をはき、仕事を続けた。短くつづめた警棒をバッグにしまって、全速力で駆けて通りを渡り、〈ゴールド・クラブ〉の入口まで行った。それから、建築資材の置かれた場所に近い煉瓦壁のアルコーヴにすばやく身を隠した。もうすぐ起こることを知っていたからだ。

② 擬音語/擬態語/同音の連発を避けよう

〇課題文
 There was a creaking sound.
 The door to the Gold Club opened up.
 A head poked out. Took a quick scan. Missed me. Ducked back inside.
 Hurry up, I thought, hurry up. The cops are coming.
 The head poked out again. A whisper.

〇生徒訳例
 キーキーという音が鳴った。
 〈ゴールド・クラブ〉に通じるドアがすっと開いた。
 頭がひとつ、突き出した。ざっと目を通し、わたしを見逃した。そしてさっと中へ戻った。
 急いで、と、わたしは思った。急ぎなさい。警察が来てるんだから。
 またさっきの頭が突き出した。ひそひそとささやく声。

② 解説
一目瞭然、オノマトペ(擬音語/擬態語)が多すぎます。緊迫した場面の翻訳では、深く感情移入しているときほど、こういうことが起こりがちです。この訳文では、「すっと」「ざっと」「さっと」「ひそひそ」に「さっきの」「ささやく」も加わって、サ行の文字が多用され、視覚的にも聴覚的にもうるさい感じになっています。ほんとうにその副詞表現が必要かどうか、推敲のときに検討しましょう。

冒頭の音はドアが開くときの音でしょうから、「キーキーと鳴る」ではおかしいでしょう。その扉は、店の入口にじかに取りつけられているはずですので、厳密には「~に通じる」(=表向きはそうは見えないがここを開けて進めば店にたどり着く)という表現も不自然です。

第3文の「目を通し」は誤用です。scanを英和辞典で引くと、確かにそう説明されていますが、「目を通す」は、書類などを最初から終わりまで読むことを指します。登場人物の動作に合った自然な表現にアレンジしてください。
 
エリカが恐れる複数のthe copsはまだ到着していません。英語の動詞comeやgoは“be+~ing”の形で近未来(「もうすぐやってくる/行く予定だ」)を表します。進行形のように解釈してもかまいませんが、その場合は、「come しつつある途中だ」、つまり「いま向かっているところだ」と正しく状況を伝えなくてはなりません。だからこの生徒訳例の「警察が来ている(=到着ずみ)」は誤訳です。“be+~ing”は、つい自動的に「~している」と訳してしまいがちですが、日本語では、「来る/行く」のように一瞬で動作が終わる動詞(瞬間動詞:ほかに「届く」「決まる」「死ぬ」など)に「~ている」をつけると、完了の意味になるのです。いつも言うことですが、つねに日本人としての自然な感性を働かせておきましょう。

☆講師訳例
 キーッと何かがきしむ音がした。
 〈ゴールド・クラブ〉の扉が開いた。
 頭がひとつのぞき、すばやくあたりを見まわした。わたしの姿は目にとまらなかったらしく、またすぐに引っ込んだ。
 急いで、と、わたしは心の中で呼びかけた。早く! 警察が来るのよ。
 さっきの頭がまた突き出した。ささやき声が続く。

いかがでしたか。今回はここまでです。第14回はこの続きからはじめます。次回も気合いを入れて取り組みましょう!

講師 布施由紀子
講師 布施由紀子Yukiko Fuse

ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。