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2023.10.11 UP

第5回 語り手になりきる【前半】

第5回 語り手になりきる【前半】

季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。

思い込みに要注意

そのむかし、アメリカで数年暮らしたことがあります。そういう経験はさぞかし翻訳に役立つだろうと思いきや、駆け出しのころには、そうでもないことを思い知らされる体験をしました。米国のことならわかっているという思い込みから、ミスをしたことがあったのです。ワシントンDCの“D.C.”(District of Columbia)を「州」扱いにして――実際、DCには州軍があります――「コロンビア州」と訳してしまい、あとから「コロンビア特別区(または特別州)」という定訳があると知って、びっくり仰天しました。まさかそんな日本語の呼び名があるとは、思ってもみなかったのです。帰国子女の生徒さんが似たような失敗をすると、心から同情をおぼえます。

海外在住に限らず、何か特別な経験や専門知識をお持ちのかたもいらっしゃるでしょう。たとえよく知っていることが原文中に出てきても、「ああ、これはあのことね」と、安易に思い込まず、念のために調べてください。確認を怠ると思いもよらぬミスを犯します。大胆な意訳は禁物です。慎重に、謙虚に取り組みましょう。

訳してみよう! 課題文

今回もBrendan Duboisの短編、“Ride-Along”から。ジャーナリストのエリカ(わたし)は、クーパー市の警察署でRoland Piperという警官を紹介され、夜間パトロールの密着取材をさせてもらうことになりました。課題文は、ふたりが顔合わせをして、エリカがパトカーに乗り込むまでが描かれていて、せりふがほとんどない文が続きます。あなたはどんなふうに訳しますか。

〇課題文
 Officer Roland Piper was even older than his Captain, and in his crinkly eyes and worn face I saw a cop satisfied with being a cop, who didn’t want the burdens of command and was happy with his own niche. In the tiny roll-call room Roland looked me up and down and said, “All right, then, come along.”
 We went out to the rear of the station, where a high fence surrounded the parking area for the police cruisers. I followed Roland, he carrying a soft leather carrying case in one hand and a metal clipboard in the other. He was whistling some tune I couldn’t recognize and he unlocked the trunk of a cruiser. There were flares in there, chains, a wooden box, a fire extinguisher, and Roland dropped his leather case in and slammed the trunk down. Then he went to the near rear door and opened it up, and lifted the rear seat cushion, looking carefully in the space behind the seat. He pushed the seat cushion down and closed the door.
 He looked over at me. “If you’re ready, get aboard.”
 I went around to the side and got in.
 Roland ignored me as he opened up his clipboard and took some notes。Then he turned on the ignition, flipped on the headlights, tested the strobe bar over the roof of the cruiser―the lights reflecting on the rear brick wall of the police station―and flipped on the siren, cycling through four different siren sounds.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)

では、レッスンに入ります。英文を少しずつ区切って生徒訳例を紹介し、解説を加えていきます。

① 語り手の思考をたどる

〇課題文
 Officer Roland Piper was even older than his Captain, and in his crinkly eyes and worn face I saw a cop satisfied with being a cop, who didn’t want the burdens of command and was happy with his own niche. In the tiny roll-call room Roland looked me up and down and said, “All right, then, come along.”

〇生徒訳例
 ローランド・パイパー巡査は彼の署長よりさらに年上で、しわの寄った目とくたびれた顔から、彼が警官になったことに満足していて、命令される重みをきらい、自分の居場所に喜びを感じていることがうかがえた。ちっぽけな部屋の中で、ローランドはわたしのことを上から下までじろじろ見て言った。「よし。じゃあ、ついてきな」

① 解説
なんだかおざなりな文です。せりふがないので気分が上がらなかったのでしょうか。しかしこの作品はエリカの一人称語りですから、地の文もすべてエリカのせりふ(モノローグ)と言えるのです。一語一語が彼女の感情、心理を反映しています。語順や構文をどうするかということ以前にまず、エリカになりきって語ることが必要です。彼女は興味を持ってこの警官を観察しています。これからの取材に備えて緊張もしていることでしょう。訳者もそのような気持ちを自分の中に作って、この警官を観察しなくてはなりません。そういう意識があれば、こんなにだらけた文は書けないはずです。

では訳文の講評に移りましょう。まず、「しわの寄った目」がおかしい。そんなものはありえませんので、こう書いた時点ですでに訳者のやる気のなさが露呈しています。crinkly eyesは、目のまわりにしわができているようすを表します。辞書の訳語をそのままあてはめて、自分でも変な訳だと思いながら「書いちゃう」のはいけません。“crinkly eyes”を英語のサイトで調べたり、画像検索してみたりすれば容易に解決がつくはずです。

エリカのみたところ、ローランドは、警官「になった」ことではなく警官「である(being)」ことに満足しているようです。自分の居場所(=年下の署長のもとで働くこと)に喜びを感じているのであれば、「命令される重みをきらっている」はずがありません。burden of commandは、直訳すれば「指揮の重荷」です。人の上に立つのはたいへんだから低い地位に甘んじているのでしょう。エリカの思考を論理的にたどりましょう。

tiny roll-call roomは、確かに「ちっぽけな部屋」にはちがいないのでしょうが、tiny を見れば自動的に「ちっぽけな」と訳す癖があるのなら直してください。「ちっぽけ」は小さくて取るに足りないという否定的な意味がありますが、本来はvery small in sizeという意味です。エリカが「なんだ、こんなちっぽけな部屋」と思っているわけではないのです。rollcall roomはいちおうきちんと「点呼室」と訳しましょう。英語のサイトで調べてみると、パトロール前に警官が集まって情報の共有や任務の確認をし、適宜、指示を受ける部屋らしいです。日本でも運送会社にそういう部屋があるそうです。

☆講師訳例
 ローランド・パイパーは、警部よりもまだ年上だった。そのしわに囲まれた目とくたびれた顔から、警官であることに満足しているようすが見てとれた。管理職の責を負うことを望まず、自分の能力に見合った地位に甘んじているのだ。小さな点呼室で、ローランドはわたしを上から下までじろじろと見てから言った。「よーし、じゃあ、ついてきな」

② 語り手の視線を追う

〇課題文
 We went out to the rear of the station, where a high fence surrounded the parking area for the police cruisers. I followed Roland, he carrying a soft leather carrying case in one hand and a metal clipboard in the other. He was whistling some tune I couldn’t recognize and he unlocked the trunk of a cruiser.

〇生徒訳例
 わたしたちは警察署の裏に出ていった。そこでは高い柵がパトカーのための駐車場を囲んでいた。わたしはローランドについていき、ローランドはやわらかい革のキャリーケースを片手に、金属製のクリップボードをもう片方の手に持っていた。わたしが気づかない調子で口笛を吹き、車のトランクの鍵をあけた。

② 解説
駐車場の描写はよしとして、その次の文に問題があります。骨子だけを取り出してみると、「わたしはローランドについていき、ローランドは持っていた」と、ふたりがそれぞれ何をしていたかをただ並べて書いただけに終わっています。日本語で一から文を書くときに、このような構成を選ぶ人はまずいないでしょう。エリカの視点や動きを意識しましょう。「わたしはローランドについていった。」と、いったん切るだけでも違ってきます。句点を打つことで小さな緊張感が生まれ、さっと視点が切り替わって、エリカの目から見たローランドの姿、彼が手にしているものがくっきりと見えてきます。
 
しかしその持ち物がおかしい。クリップボードはいいのですが、「キャリーケース」はcarrying caseの訳ではありません。「ー」と「ング」のちがいだけじゃないかと思わず、画像検索をかけてみましょう。「キャリングケース」は、ノートパソコンなどを携行するためのケース、「キャリーケース」(和製英語:英語ではroller bag, roll-aboardなどといいます)は、引き手とキャスターのついたスーツケースです。直観的にわかったと思っても、いちおう確かめましょう。
 
some tune I couldn’t recognizeを「わたしが気づかない調子で」と訳していますが、読者はそう言われても、どんな調子なのかイメージできません。tunetoneと読み違えてしまったのでしょうか。ここのrecognizeは、「(以前に知っていたものだと)識別する、それとわかる」意。つまり、「わたしには聞き覚えのない(=知らない)」曲(tune)を吹いていたのです。

☆講師訳例
 警察署の裏へ出ると、そこは高いフェンスに囲まれたパトカー専用の駐車場になっていた。わたしはローランドについていった。彼は片方の手にやわらかい革のキャリングケースを提げ、もう一方の手に金属製のクリップボードをかかえて歩いていく。わたしの知らない曲を口笛で吹いていた。彼は車のトランクをあけた。

いかがでしたか。第5回では課題文の前半に取り組みました。第6回目ではこの続きから取り組みます。次回もお楽しみに!

講師 布施由紀子
講師 布施由紀子Yukiko Fuse

ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。