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2024.06.06 UP

第16回(最終回) 日本語にする前にしっかり悩んで考えよう【後半】

第16回(最終回) 日本語にする前にしっかり悩んで考えよう【後半】

季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。

日本語にする前にしっかり悩んで考えよう

いよいよこの連載も最終回となりました。今回もいつものように前回の続きからはじめます。
(前半はこちら→第15回 日本語にする前にしっかり悩んで考えよう【前半】

訳してみよう! 課題文

〇課題文
 They dropped to the ground, the knapsacks tumbling next to them, and I stepped up and fired again, finishing off the one on the left. The one on the right was moaning, curled over on his side, and I kicked him over on his back, so he was looking up at me.
 I said, “Tsk, tsk, Tommy. Did you think I’d let this go? After my hubbie planned it, scoped it, and brought you and your brother in? It would have been fine― but you were too greedy, you twit.”
 He grimaced. “Sonny … should have listened to Sonny … he wanted to kill your Peter … and I just wanted him out … by tuning him up …”
 “Yes, Tommy, you should have listened to your brother.” And then I shot him again, finishing him off.
 I looked around. Still no sign of the police. No wonder crime was rampant in this part of town. I picked up both knapsacks and ran back to the cruiser, emptied the contents into my large purse and threw the purse onto the passenger seat and dumped the empty knapsacks into the nearby Dumpster. Went back to the construction gear, pulled out some pre-positioned cinder blocks, and in a few minutes, my baton and pistol were dumped into the canal.
 Then I ran back to the cruiser, made a desperate radio call, and waited, shivering on the cruiser’s floor, doing my best to ignore the still figure of Officer Roland Piper on the ground.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)

では、レッスンに移りましょう。生徒訳例を紹介したあと、解説を加えていきます。

③ その日本語は自然ですか―よく吟味すること

〇課題文
 I looked around. Still no sign of the police. No wonder crime was rampant in this part of town. I picked up both knapsacks and ran back to the cruiser, emptied the contents into my large purse and threw the purse onto the passenger seat and dumped the empty knapsacks into the nearby Dumpster. Went back to the construction gear, pulled out some pre-positioned cinder blocks, and in a few minutes, my baton and pistol were dumped into the canal.

〇生徒訳例
 わたしは周囲を見回した。まだ警察の気配はない。町のこの界隈で犯罪が横行するのも無理はない。わたしは両方のナップサックを拾い上げて、パトカーへ駆け戻った。中身を自分の大きなバッグにあけて、そのバッグを助手席に投げこみ、空っぽのナップサックを近くのゴミ容器の中に捨てた。建築資材が置いてある場所に戻り、あらかじめ配置されていたシンダーブロックをいくつか引き抜いた。二、三分以内に、わたしの警棒と拳銃は運河に捨てられた。

③ 解説
ほかのパトカーも現場に向かっているのですね。それが到着する前に証拠の凶器を処分しなくてはならない。この切迫感を自分の胸の内でも感じながら訳しましょう。おおむね雰囲気は訳せていると思うので、問題点を二つだけあげておきます。

まずsignという語。「しるし」という意味で、「徴候(表れ)」、「兆候(前ぶれ)」、いずれの意味にも使われます。つい「気配」と訳したくなるのですが、気配とは、「どうもそうらしいと感覚的に察せられるようす」のこと。パトカーが来ていることがなんとなく感じられるという状況は、たとえサイレンを鳴らしていないにしても、まずありえないと思います。「警察の気配」とまとめてしまうと、さらに違和感が増すはずです。うまく訳せたような気にならないで、具体的にどういう状況を言っているのかよく考えてみましょう。

もうひとつは、pre-positioned cinder blocksの訳です。「あらかじめ配置されていた」とはどういうことでしょう。誰がなんのために配置したのかわからないので、なんとなく釈然としません。機械的に日本語に置き換えてすまさずに、積極的に深読みをする必要があります。pre-positionedの用例をさがすと、災害時の救援物資を「備蓄しておく」意に使われている記事がたくさん見つかりました。pre-は、「前もって」という意味ですから、証拠となる凶器を運河に沈めるおもりに使うため、エリカが事前に計画的に配置していたのではないでしょうか。受動態をそのまま受け身に訳すと、なんとなくわかったようなわからないような文になることがあります。ほんとうに状況を鮮明に伝えられているかどうか、よく吟味しましょう。

☆講師訳例
 わたしは周囲を見渡した。まだパトカーの姿はどこにも見えない。どうりでこの地区で犯罪が多発するわけだ。わたしはふたつのナップサックを拾いあげると、走ってパトカーに戻り、中身を大きなバッグに移した。それを助手席に放り込んで、空っぽのナップサックをそばのゴミ収集容器の中に捨ててから、建築資材置き場に取って返し、前もって用意しておいたコンクリートブロックを何個か引っぱり出した。数分後、わたしの警棒とピストルが運河に沈んだ。

④ 心理を表す形容詞は
登場人物の置かれた状況を考えて意味を詰める

〇課題文
 Then I ran back to the cruiser, made a desperate radio call, and waited, shivering on the cruiser’s floor, doing my best to ignore the still figure of Officer Roland Piper on the ground.

〇生徒訳例
 そしてわたしはパトカーに駆け戻り、必死の無線連絡をし、まだ地面に横たわったままのローランド・パイパー巡査の姿を精いっぱい無視しようとしながら、パトカーの床の上で震えて待っていた。

④ 解説
 この生徒さんは③の箇所で「駆け戻る」という語を使ったばかりですので、くり返しを避けて異なる表現を使ったほうがいいでしょう(わたしは2度目ではないので使います)。desperateを「必死の」と訳していますが、エリカは何に「必死」だったのでしょう。そもそも、ほんとうに必死で連絡したのですか。「警察の気配」と同じく、「必死の無線連絡」も登場人物の置かれた状況や彼女の心理状態を考慮せずに機械的に日本語に置き換えてしまった印象が否めません。何を指してdesperateと言っているのかよく考えましょう。
 stillは文脈に合わせて適切に訳せてはいますが、念のために確認しておきますと、「まだ~」という意味ではなく、「静止した/じっとしている」という意味です。まちがえていなければ問題ありません。

☆講師訳例
 それから、パトカーに駆け戻ると、切羽詰まった声で無線連絡をとり、パトカーのフロアにうずくまってぶるぶる震えながら待っていた。地面に倒れたまま動かないローランド・パイパー巡査の姿は極力思い浮かべないようにした。

思いもよらなかった展開に愕然としているうちに、物語はこのあと一気に結末を迎えます。みなさんといっしょに最後まで見届けることはできませんが、気になる方は The Saturday Evening Postのサイトに掲載されているインターネット版(https://www.saturdayeveningpost.com/2012/04/ride-along-brendan-dubois)で続きをお読みください。本講座の課題文(書籍掲載版)とはストーリーが少し異なりますが、課題に取りあげなかった部分も楽しむことができます。

さあ、これでわたしのレッスンはおしまいです。ともかくたくさん訳して場数を踏む、そして勉強を続ける。そこに大きな楽しみがあるはずです。この講座が翻訳の世界に踏み出すきっかけになったとすれば、講師としてこれほどうれしいことはありません。

講師 布施由紀子
講師 布施由紀子Yukiko Fuse

ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。