季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
表現者として総合的に成長する
このWeb連載も残すところ2回となりました。毎回、課題範囲のストーリーに即して、原文の読み解き方や訳語の詰め方についてさまざまな角度から解説してきましたが、わたしがこの講座を通してお伝えしたかったのは、突き詰めれば、原文をたいせつにすること、日本語をたいせつにすることというただ二点に尽きるように思います。
原文をたいせつに、というのは直訳せよということではなく、英語表現の意味だけではなく、ニュアンスを理解できる力をつけて作品を味わう感性を高めなさい、ということです。そうすれば無理な要約や超訳はおのずとできなくなるはずです。日本語をたいせつに、というのは、うまく訳せないからといって、日本人としての自然な感性に逆らって日本語をゆがめるような真似をしてはならないということです。逐語訳に堕することなく、自分が作品から受けとめたメッセージや感じとったことを(なるべく)自然な日本語で的確に伝える境地をめざしてほしいのです。
翻訳学習をはじめてまもない人は、まずは英語の読解力を伸ばし、それから日本語の語彙力をつけて……などと分けて考えがちですが、翻訳力とは、そのように段階を踏んだり部分的に補強したりして性急に身につけるものではありません。時間をかけて育てるものなのです。まずはそう心得て腰を据えてください。それから外国語の作品を読み、理解し、日本語で語り伝える実践をこつこつ続けて、表現者として総合的に成長していくことをめざしていただきたいのです。じつのところ、それがプロデビューへのいちばんの近道ではないかと思います。
訳してみよう! 課題文
主人公のエリカは自称ジャーナリスト。夫のピーターは大怪我をして自宅療養中です。ある晩、エリカはピーターを家に残し、夜間パトロールの密着取材に出かけます。パトカーに同乗して巡回中、宝石店で強盗事件が発生、現場に急行しますが、警官が車を降りて現場に近づこうとしたそのとき、なんとエリカは彼を警棒で殴って気絶させ、宝石店から出てきた二人組の強盗を銃撃してしまいます。エリカはジャーナリストなどではなかったのです。今回はその続きを訳します。いよいよ彼女の正体が明らかになります。
〇課題文
They dropped to the ground, the knapsacks tumbling next to them, and I stepped up and fired again, finishing off the one on the left. The one on the right was moaning, curled over on his side, and I kicked him over on his back, so he was looking up at me.
I said, “Tsk, tsk, Tommy. Did you think I’d let this go? After my hubbie planned it, scoped it, and brought you and your brother in? It would have been fine― but you were too greedy, you twit.”
He grimaced. “Sonny … should have listened to Sonny … he wanted to kill your Peter … and I just wanted him out … by tuning him up …”
“Yes, Tommy, you should have listened to your brother.” And then I shot him again, finishing him off.
I looked around. Still no sign of the police. No wonder crime was rampant in this part of town. I picked up both knapsacks and ran back to the cruiser, emptied the contents into my large purse and threw the purse onto the passenger seat and dumped the empty knapsacks into the nearby Dumpster. Went back to the construction gear, pulled out some pre-positioned cinder blocks, and in a few minutes, my baton and pistol were dumped into the canal.
Then I ran back to the cruiser, made a desperate radio call, and waited, shivering on the cruiser’s floor, doing my best to ignore the still figure of Officer Roland Piper on the ground.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
エリカの夫も一味だったのですね。しかし仲間の裏切りに遭って大怪我をした。それでエリカが復讐と盗品の強奪をもくろんだのです。エリカは腹を立てて、ずいぶん興奮しています。訳すほうもテンションを上げてのぞみましょう。
①外来語に惑わされない―元の意味を確認しよう
〇課題文
They dropped to the ground, the knapsacks tumbling next to them, and I stepped up and fired again, finishing off the one on the left. The one on the right was moaning, curled over on his side, and I kicked him over on his back, so he was looking up at me.
〇生徒訳例
彼らは地面に倒れ、ナップサックがそばに落ちた。わたしは一段レベルを上げてふたたび発砲し、左側の男の息の根を止めた。右側の男は横倒しになって体を丸めながらうめき声をあげていた。わたしは彼の背中を蹴って、あおむけにし、わたしを見上げられるようにした。
① 解説
状況はほぼイメージできるように訳せています。finishing offを「息の根を止めた」と訳したときには、ご本人もハードボイルド作家になったような気分を味わったのではないでしょうか。「やった!」と思ったときは自分をほめてあげましょう。
ただ、その同じ第2文の「一段レベルを上げて」というのがなんだかわかりません。狙いをより正確にするならともかく、発砲自体のレベルなどあげられるものでしょうか。「ステップアップ」は「進歩する/向上する」意味の外来語としてよく使われますが、どう考えてもここには「向上する」意味があてはまりません。そういうときには「レベルアップ」に置き換えるより先に、まず英和辞典を引きましょう。「進み出る/近づく」という意味であることがわかるはずです。外来語はかぎられた意味でしか使われなかったり、元の意味とは違っていたりすることがあります。確認を怠ってはいけません。
on one’s sideは確かに「横倒しになる」という意味ですが、例えば「ちょっと疲れたから横倒しになるわ」などと言う人はひとりもいないと思います。人の動作には使わない表現なのですね。文脈に合った言い回しを考えましょう。
☆講師訳例
男たちはばったり倒れ、ナップサックがそばに落ちた。わたしは近づいていってもう一度引き金を引き、左側の男にとどめを刺した。右側のやつは背中を丸めて横向きに寝ころがってうめいている。わたしはそいつを蹴って仰向けにひっくり返し、こっちの顔が見えるようにした。
② 動詞の意味に迷ったら、目的語は物か人か、確認を
〇課題文
I said, “Tsk, tsk, Tommy. Did you think I’d let this go? After my hubbie planned it, scoped it, and brought you and your brother in? It would have been fine― but you were too greedy, you twit.”
He grimaced. “Sonny … should have listened to Sonny … he wanted to kill your Peter … and I just wanted him out … by tuning him up …”
“Yes, Tommy, you should have listened to your brother.” And then I shot him again, finishing him off.
〇生徒訳例
わたしは言った。「ちっちっ、トミー。わたしがこれを見過ごすとでも思ったの? わたしの夫が強盗の計画を立てて、現場を詳しく調べて、あんたと弟を引き入れてやったあとで? それはけっこうなことだったでしょう……でもあんたたちは強欲すぎた。ばかなあんたたちは」
彼は顔をしかめた。「サニー……サニーの意見に耳を傾けるべきだった……彼はおまえのピーターと山分けしたがっていた……おれは弟には関わってほしくなかった……弟に考え直せと……」
「そのとおりよ、トミー、あんたは弟の言うことを聞くべきだった」そしてわたしはふたたびトミーを撃ち、彼を射殺した。
② 解説
宝石店襲撃は、もともとはエリカの夫ピーターが仕組んでお膳立てをしたものだったようです。しかしこの二人組(兄弟)がピーターに怪我を負わせて自分たちだけで決行し、儲けをせしめようとしたわけです。この訳文からは、エリカが激怒していて、トミーという男が後悔していることは伝わってきますが、どことなくぎこちなさが感じられます。
エリカの台詞のTsk, tsk,はこれでもかまいませんが、音にとらわれずに自由に感情を表現してもよいと思います。それより、After~を「~したあとで?」と直訳してすませているのが残念です。前の文とのつながりを考え、「~したっていうのに?」とでもまとめましょう。そのあとの「それはけっこうなことだったでしょう」という台詞も意味不明で浮いていますが、流れからすると「それ(計画)はうまくいったはずだった」と解釈するのが妥当でしょう。それなのに兄弟が欲を出してこんなことになった、という論旨です。
そのエリカの言葉に対し、トミーが何を言っているのか、これまたよくわかりません。どこに問題があったのか、順に見ていきましょう。まず弟(兄でも可)のサニーはピーターと「山分けしたがっていた」というのが誤訳です。whackには「(物)を山分けする」という意味はありますが、人が目的語になったからといって「~と山分けする」という意味にはなりません。言うまでもなく、日本語の「を」と「と」は同義ではありませんから、強引なアレンジは禁物です。ここはmurderという意味にとるべきでしょう。次のwanted him outの him は直前の人物を指しますので、Peter です。トミーは「彼を(メンバーから)はずしたかった」と言っているのです。最後のby tuning him upはその手段を説明しています。直訳すると、「自分はピーターを除外したかった……ピーターを調整することによって」。この「調整」のせいでピーターは大怪我をしたのですね。
☆講師訳例
「なめんじゃないよ、トミー。わたしが黙って見逃すとでも思った? うちのだんながプラン立てて、下見して、あんたたち兄弟を仲間に入れてやったんじゃないの。うまくいくはずだったのに――よけいな欲をかくからよ、このばか」
彼は顔をしかめた。「サニー……サニーの言うとおりにすればよかった……あいつはおまえんとこのピーターをばらしたがってた……おれはただ、手を引かせようとしただけだ……焼きを入れてな……」
「そうね、トミー。兄さんの言うことを聞くべきだったわ」そう言うと、わたしはもう一度彼を撃ち、息の根をとめた。
いかがでしたか。いよいよ次回は最終回です。最後まで気合いを入れて取り組みましょう!
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
連載の一覧はこちら
〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
第4回 調べ物をしっかりと【後半】
第5回 語り手になりきる【前半】
第6回 語り手になりきる【後半】
第7回 長めのせりふに挑戦【前半】
第8回 長めのせりふに挑戦【後半】
第9回 登場人物の五感をリアルに表現する【前半】
第10回 登場人物の五感をリアルに表現する【後半】
第11回 英和辞典だけに頼らず、事実確認を【前半】
第12回 英和辞典だけに頼らず、事実確認を【後半】
第13回 日本語の感性をたいせつに【前半】
第14回 日本語の感性をたいせつに【後半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。