季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
固有人名の表記について
課題作品の著者名Duboisは、日本では「デュボイズ」、あるいはフランス語風に「デュボワ」とも表記されています。改めて調べてみたところ、Book BrowseというサイトのDubois氏のプロフィール欄に“Doo-Boyz(ドゥボイズ)”と発音すると説明されていました。
固有人名の表記は厄介です。著名人など、定着した表記があれば、それを使いますが、辞典に載っていないような名前の場合は自分で調べなくてはなりませんが、諸説出てきて悩むこともあります。わたしは最近では、動画を探してみることにしています。運がよければ、ご本人がスピーチをしたりインタビューを受けたりしているものが見つかり、一挙に解決します。Brendan Dubois氏についても、ご本人が登場して「ドゥボイズです」と自己紹介しておられる動画が見つかりました。
しかし考えてみれば、外国人名をどう表記しても、原音とぴったり同じになるはずはありません。カタカナで書こうとすること自体に無理があるのでしょう。訳者としては、その時々でもっとも妥当と思える選択をするしかありません。せめて調査には最善を尽くそうと思います。
訳してみよう! 課題文
今回もドゥボイズ作の短編、“Ride-Along”からの出題です。ジャーナリストのエリカによる夜間パトロールの同行取材がはじまります。クーパー市の通りを走りながら、警官のローランドは、自分を取材対象に選んだ理由を尋ねます。エリカは、あなたがいちばんの古株だからと答えます。すると彼は、自分が取材に応じた理由を話しだします。今回はそのくだりから。
〇課題文
We went on another couple of blocks. He said, “You want to know the deal?”
“Sure,” I said. “What kind of deal is that?”
“Deal is, I didn’t have to have you with me tonight. Captain couldn’t force me. And if he did, I could tell you nothing at all. But you see, the department’s getting a new allotment of cruisers next month. I made the deal with the captain. I put up with you and your dumb questions, I get the best cruiser. No more riding along in this six-year-old deathtrap.”
“I don’t do dumb questions,” I said, my hands clasping the notebook tight.
“Huh? What’s that?”
Now it was my turn. I said sweetly, “Officer, you heard me the fi rst time. I don’t do dumb questions. You’re good at what you do, and I’m good at what I do.”
He looked at me, scanned my legs, and offered me a thin smile. “All right. Point taken. Just so there’s no misunderstandings, there’s two rules.”
“Go ahead.”
We stopped at a traffic light. A group of kids in Red Sox jerseys were on the street corner. When they spotted the cruiser, they faded into the shadows.
“Rule one: you don’t get in my way. You stay behind me, and if I tell you to stay in the cruiser, by God, you stay in the cruiser. Rule two: no questions about my personal life. I owe you and the taxpayers of Cooper eight hours a shift, forty hours a week. What I do on my own time, what hobbies I got, hell, who or what I like to date, none of your damn business. Got that?”
“Sure,” I said. “Got them both.”
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンをはじめましょう。英文を少しずつ区切って生徒訳例を紹介し、解説を加えていきます。
① deal の意味は「取引」だけじゃない
―会話が不自然なときは辞書を引こう
〇課題文
We went on another couple of blocks. He said, “You want to know the deal?”
“Sure,” I said. “What kind of deal is that?”
“Deal is, I didn’t have to have you with me tonight. Captain couldn’t force me. And if he did, I could tell you nothing at all. But you see, the department’s getting a new allotment of cruisers next month. I made the deal with the captain. I put up with you and your dumb questions, I get the best cruiser. No more riding along in this six-year-old deathtrap.”
〇生徒訳例
わたしたちはさらに二ブロック進んだ。ローランドが言った。「取引について知りたいかい」
「もちろん」わたしは言った。「どんな取引かしら」
「取引ってのは、おれは今夜、きみを乗せなくてもよかったんだ。署長には強制できなかった。強制していたら、おれはきみに何も言わなかっただろう。だがね、ほら、うちの署は来月、新しいパトカーの割当を受ける。おれは署長と取引をした。きみときみのくだらない質問をしんぼうしたら、いちばんいいパトカーをもらえるんだ。こんな六年物のぽんこつ車とはおさらばだ」
① 解説
最初のふたりの会話は、ローランドの話の切り出し方が唐突ですけれども、まあ噛み合っているようです。彼の言う「取引」の内容も、次のせりふの最後の3文を読めば腑に落ちます。しかし「取引ってのは」から「何も言わなかっただろう」までの流れがどうみても不自然で、何が言いたいのかよくわかりません。問題点をみていきましょう。
まず、第1文。「取引ってのは」を受ける述部がなく、文として成立していません。こういうときはdealが「取引」以外の意味に使われている可能性を考え、辞書を引きましょう。せりふなので、辞書どおりの使い方をしているとはかぎりませんが、何か手がかりが見つかるかもしれません。果たして、研究社の『リーダーズ英和辞典』に「事態」「状況」という語義と、The deal is that~「じつは~だ」という用例が掲載されていました。課題文ではtheがついていませんが、“Deal is,”はこの意味に使われていると考えられます。自分が取材に応じることにした事情を指しているのでしょう。冒頭のせりふ、“You want to know the deal?”のdealもその意味にとったほうが自然な流れになりそうです。
第2文「署長には強制できなかった」は誤訳ではありませんが、ローランドが全力で抵抗したかのように読めないでしょうか。結局は取材に応じたわけですので、なんとなく釈然としない感じが残ります。このcouldn’tは単なる過去ではなく、「(したくてもor 立場上)できない」という仮定法的なニュアンスに受け止めるべきでしょう。
第3文「きみに何も言わなかっただろう」という日本語も、文脈を考えずに直訳したがために、「この取引のことを打ち明けなかっただろう」という意味にとれてしまって、論旨が破綻しています。ここは、何を聞かれてもだまっていることもできたのだ(could)、つまり、取材に協力しないという選択もできたと言っているのです。
☆講師訳例
さらに数ブロック進んだところで、ローランドがきいた。「こっちの事情を知りたいかい?」
「ええ」わたしは答えた。「どんな事情でしょう」
「じつは、おれはべつに今夜きみを乗せなくてもよかったんだ。署長も強制はできない。無理強いしたって、おれはきみに何もしゃべらずにいることだってできる。だがな、うちの署には来月新しいパトカーが何台か割り当てられる。そこでおれは署長と取引をした。きみと、きみのくだらない質問を辛抱する代わりに、いちばんいい車をおれにまわしてくれってな。そうすりゃ、おれはいつぶっ壊れるかわからないこの六年物に乗らずにすむわけだ」
② ほんとうにその表現でいい?
―日本人としての感性をたいせつに
〇課題文
“I don’t do dumb questions,” I said, my hands clasping the notebook tight.
“Huh? What’s that?”
Now it was my turn. I said sweetly, “Officer, you heard me the fi rst time. I don’t do dumb questions.You’re good at what you do, and I’m good at what I do.”
〇生徒訳例
「わたし、くだらない質問はしません」わたしはノートを握りしめながら言った。
「はあ? なんだって?」
今度はわたしの番だ。わたしはやさしい声で言った。「巡査、一度聞いたらわかるでしょう。わたしはくだらない質問はしないんです。あなたは自分の仕事が得意で、わたしは自分の仕事が得意なんですよ」
② 解説
いちおう会話は成立していますし、エリカの感情も伝わってきます。しかし訳者が日本人としての感性を置き去りにして、勢いで訳してしまったような箇所も見受けられます。
そのひとつは、claspの訳。たいせつな取材ノートを「握りしめ」たらくしゃくしゃになってしまいます。英和辞典でclaspを引くと、確かに「握る」という語義が出ていますが、日本語では通例、5本の指をすべて内側に曲げて、そのなかにおさまる小さいもの(例:硬貨)、あるいは細いもの(例:鉄棒)について、「握る」を使います。それより大きなものには「つかむ」を使うのがふつうです。英英辞典でclaspを調べてみると、“to hold something tightly in your hand”と説明されています。「力を込めてしっかり持つ」意なのですね。「握る」でも「つかむ」でもありうるのです。
最後のせりふは正しく訳せていますが、なんだか変な日本語だとしかいいようがありません。こんなときには、自分だったらどう言うか、立ち止まって考えてみたいものです。日本人としての感性を取り戻しましょう。
☆講師訳例
「わたしはくだらない質問はしません」わたしはノートをぎゅっとつかんだ。
「はあ? なんだって?」
今度はわたしの番だ。わたしは感じのよい口調で言った。「いまお聞きになったとおりです。わたしはくだらない質問はしないんです。あなたは有能な警官だし、わたしは有能な記者ですから」
いかがでしたか。第7回では課題文の前半に取り組みました。第8回目ではこの続きから取り組みます。次回もお楽しみに!
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
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〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
第4回 調べ物をしっかりと【後半】
第5回 語り手になりきる【前半】
第6回 語り手になりきる【後半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。