季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がWeb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
語り手になりきる
今回も課題文に取り組みます。第5回の続きからはじめますので、まだ読んでいない方はこちらも読んでみてくださいね。
第5回 語り手になりきる【前半】
訳してみよう! 課題文
〇課題文
Officer Roland Piper was even older than his Captain, and in his crinkly eyes and worn face I saw a cop satisfied with being a cop, who didn’t want the burdens of command and was happy with his own niche. In the tiny roll-call room Roland looked me up and down and said, “All right, then, come along.”
We went out to the rear of the station, where a high fence surrounded the parking area for the police cruisers. I followed Roland, he carrying a soft leather carrying case in one hand and a metal clipboard in the other. He was whistling some tune I couldn’t recognize and he unlocked the trunk of a cruiser. There were flares in there, chains, a wooden box, a fire extinguisher, and Roland dropped his leather case in and slammed the trunk down. Then he went to the near rear door and opened it up, and lifted the rear seat cushion, looking carefully in the space behind the seat. He pushed the seat cushion down and closed the door.
He looked over at me. “If you’re ready, get aboard.”
I went around to the side and got in.
Roland ignored me as he opened up his clipboard and took some notes。Then he turned on the ignition, flipped on the headlights, tested the strobe bar over the roof of the cruiser―the lights reflecting on the rear brick wall of the police station―and flipped on the siren, cycling through four different siren sounds.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンに入ります。英文を少しずつ区切って生徒訳例を紹介し、解説を加えていきます。
③ 細かい描写には、緻密に取り組む
〇課題文
There were flares in there, chains, a wooden box, a fire extinguisher, and Roland dropped his leather case in and slammed the trunk down. Then he went to the near rear door and opened it up, and lifted the rear seat cushion, looking carefully in the space behind the seat. He pushed the seat cushion down and closed the door.
He looked over at me. “If you’re ready, get aboard.”
I went around to the side and got in.
〇生徒訳例
中には照明装置、鎖、木の箱、消化器が入っていて、ローランドは革のケースを放りこみ、トランクをバタンと閉めた。それから、彼は後部ドアの近くに行って、それを開き、座席の背後のスペースを注意深く見ながら、後部クッションを持ち上げた。そして座席のクッションを押し戻してドアを閉めた。
彼はわたしのほうを見た。「準備ができたら、乗れ」
わたしはパトカーのそばへ歩いていって乗り込んだ。
③ 解説
パトカーのトランクの中身など、見たことはありませんが、人間の(?)「消化器」は入っていないと思いますよ。よくある変換ミスですので気をつけましょう。「照明装置」はおそらく、交通事故の現場などに設置する「非常信号灯(または非常警告灯)」でしょう。ここも、そうしたものが「入っていて、ローランドは~」とただ続けると、情報だけ伝えたような平板な印象になります。「ローランドは」のところで話題が変わっていることに着目しましょう。その転換を表現しなくてはなりません。
このあとの文でもローランドの行動が説明されますが、彼は「後部ドアの近く(near the rear door)」ではなく、the near rear door「左側の後部ドア」まで行ったのです。near を辞書で確認してください。「(馬、車、道路などの)左側の」という意味が出ています。
ローランドは後部座席まわりの点検をしているようですが、「後部シートの背後のスペースを見ながらクッションを持ち上げて」何をしようというのでしょうか。意味がわかりません。①クッションを持ち上げて(下に何もないことを確認して)から、②背後のスペースをチェックし、③また元に戻したというのならわかります。順番どおりに説明するのがよさそうです。じつはこのseat cushionというのは座席に置かれたクッションのことではなく、座席の「座部」を指すらしいのです。このパトカーの後部座席が折り畳み式であれば、この座部の前のほうを引き上げることができます。ここを持ち上げたときに、もし座部と背もたれのあいだに何かはさまっていれば、下に落ちるでしょうから、後部スペースを確認すれば見つかるのかもしれません。たいていの動作には意味があるものです。
エリカはすでに「パトカーのそば」にいますので、「そばへ歩いて」いく必要はありません。the sideは「側面」でしょう。文脈上、助手席側であることは明らかです。aroundがついていますから、そこへまわっていったのですね。
ぱっと思いついた訳に飛びつくのではなく、緻密に読んで必要な調査をし、しっかり場面をイメージしましょう。
☆講師訳例
中には非常信号灯、チェーン、木の箱、消火器が入っている。ローランドはそこに革のケースを置くと、勢いよくトランクを閉めた。それから左側の後部ドアまで行って扉をあけ、後部座席の座部を引き上げて、奥のスペースを仔細に調べてから、クッションを元に戻し、ドアを閉めた。
そしてわたしのほうへ目をやった。「準備ができたら、乗りな」
わたしは助手席側へまわり、乗り込んだ。
④ カタカナが多くなりすぎないようにして読みやすく
〇課題文
Roland ignored me as he opened up his clipboard and took some notes. Then he turned on the ignition, flipped on the headlights, tested the strobe bar over the roof of the cruiser ――the lights reflecting on the rear brick wall of the police station―― and flipped on the siren, cycling through four different siren sounds.
〇生徒訳例
ローランドはわたしを無視しながらクリップボードを開き、何かメモした。それからイグニッションを入れて、ヘッドライトをつけた。パトカーのルーフ上のストロボバーをテストし――ライトが警察署のレンガの壁に反射していた――サイレンのスイッチを入れて、四つの異なるサイレンを順に鳴らした。
④ 解説
今度はまずまずまちがいなく訳せたようです。問題はただひとつ、カタカナが多いこと。内容からすれば、仕方のないことですが、読者には少々読みにくいのではないでしょうか。たとえば「ストロボバー」は一般読者にはなじみのない言葉でしょう。「レンガ」は「煉瓦」と書くこともできます。その壁に反射しているのは、ヘッドライトの「光」でしょう。「サイレン」という語の繰り返しも避けたいところです。
☆講師訳例
ローランドはわたしを無視してクリップボードを開き、何か書きつけた。それからエンジンをかけて、ヘッドライトをつけ、屋根のストロボ警告灯の動作確認をし――警察署の裏の煉瓦の壁に光を反射させ――サイレンのスイッチを入れて、四種類の音をひととおり鳴らしてみた。
語り手になりきって日本語文を綴るということは、読者に親切な文を書くことにも通じます。読者が鮮明なイメージを描きながら物語を楽しめるようにするには、まず訳者が原文を的確に理解できていなければなりません。思い込みや勘に頼らず、念には念を入れて調べる姿勢がたいせつです。そうして緻密に解釈した結果を、語り手の心で訳す。一見、なんの苦もなく訳したような自然な訳文ほど、裏には繊細な感性の工夫があるのです。その境地をめざして、こつこつ演習を積みましょう。
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
連載の一覧はこちら
〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
第4回 調べ物をしっかりと【後半】
第5回 語り手になりきる【前半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。