季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
著者の表現意図に沿う
何年か前のことです。訳書の出版準備が進んでいたころに、著者から加筆修正の依頼が来ました。かなり細かい修正が多かったのですが、中でも驚いたのは、「aboutをnearlyに」「almostをapproximatelyに」という訂正依頼でした。わたしはふだん翻訳学校の授業で、nearlyやalmostのニュアンスを無視して「およそ」と訳してはいけないとやかましく指導していますが、「およそ」と訳す人が後を絶たないものですから、わたしが些細な違いにこだわりすぎているのかと少し悩んでいた時期だったのです。でも、やはりおろそかにしてはいけないのだと改めて気づかされました。まったく異なる構造の言葉を日本語にするのですから、翻訳ではどうしても原文とのずれが生じます。それでも可能なかぎり著者の表現意図に沿った形で読者に届けるのが訳者の任務なのです。せめて誠実な訳者でありたいと思います。
訳してみよう! 課題文
前回は“ストーリーを語る”意識で訳しましょうというお話をしました。今回は翻訳に必要な調べ物の大切さを学びます。課題は主人公のジャーナリスト、エリカが警察の夜間パトロールへの同行取材に向かうシーンから。ストーリーを語ることを意識しつつ、情報を正確に伝えることを心がけ、次の英文を訳してみてください。今回も生徒訳例に解説を加える形をとることにします。
〇課題文
Cooper, Massachusetts, is one of the largest and poorest communities in the commonwealth, and I drove this warm May evening to one of its three police precinct stations. In the station’s lobby the hard orange plastic chairs were filled with residents―most didn’t speak English yet they were busily arguing with each other or with the suffering on-duty officer behand a thick glass window. When it was my turn I said, “Erica Kramer, I have an appointment to see Captain Miller.”
The harried officer looked happy to confront an easy issue, and in a manner of minutes I was taken to the rear of the precinct station. C aptain Terrence Miller sat me down at his desk and passed over a clipboard with a sheet of paper.
“Look that over, sign at the bottom, and you’ll be on your way,” he said. Miller looked to be one the upside of fifty, with an old-fashioned buzz cut and a scarlet face.
The paper was a release form stating that one ERICA KRAMER was going to accompany OFFICER ROLAND PIPER as part of a civilian ride-along program, and that by signing, said release form, myself and my heirs promised never, ever to sue the city of Cooper if I was shot, knife, killed, mutilated, or dismembered.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., ▼ The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンをはじめます。
① 地名については調べましょう
〇課題文
Cooper, Massachusetts, is one of the largest and poorest communities in the commonwealth, and I drove this warm May evening to one of its three police precinct stations.
〇生徒訳例
マサチューセッツ州にあるクーパーは、連邦内で最も大きく最も貧しい共同体のひとつだ。わたしは五月のあたたかい夕暮れの中、三つの管轄区域にある警察署のうちのひとつに行った。
① 解説
小説に出てくる地名は、表記はもちろん、郡なのか市なのか、どこにあるのか、そもそも実在するか否かなど、確認する必要があります。Cooperは、少しあとにthe city of Cooperとして再登場しますので「市」ですが、実際にはマサチューセッツ州内に見つかりません(テキサス州とフロリダ州にはあるようです)。架空の都市なのでしょう。communityはこのcityを指しますから「共同体」と訳したのではおかしいです。また、これが「連邦内(=全米)で最も大きい」はずもなさそうです。英和辞典で調べてみると、commonwealthは、米国では「Massachusetts, Pennsylvania, Virginia, KentuckyについてStateの代わりに用いる公称」、つまり「州」を意味することがわかります。マサチューセッツ州内ではかなり大きい都市だと言っているのですね。
「三つの管轄区域にある警察署」は、一見、訳せているように思えますが、どういう機関が管轄している区域なのか、その三つの区域だけに警察署があるのか、ほかの区域の治安はどうなっているのかなどと、突っ込みたくなるような翻訳です。深く考えずに訳語を並べたために、なんとなくあいまいな訳になっているのです。police precinctは「警察管区」、つまり市内を三つの管区に分けて警察業務がおこなわれていることを表しているのです。単に「市内の三つの警察署」と書くだけでも十分に表現できるはずです。読者にどう伝わるかを考えて説明しましょう。
☆講師訳例
マサチューセッツのクーパーは、州内では最も大きく、最も貧しい自治体に分類される。このあたたかい五月の夕刻、わたしは市内三カ所にある警察署のひとつに車で乗りつけた。
② その表現は自然ですか? 国語辞典を引きましょう
〇課題文
In the station’s lobby the hard orange plastic chairs were filled with residents―most didn’t speak English yet they were busily arguing with each other or with the suffering on-duty officer behand a thick glass window. When it was my turn I said, “Erica Kramer, I have an appointment to see Captain Miller.”
〇生徒訳例
署内の受付に置いてあるオレンジ色の硬いプラスチック製の椅子は住民たちであふれかえっていた。ほとんどが英語を話していなかったが、お互いに、あるいは厚いガラス窓の向こう側で苦しんでいる当番と忙しそうに言い争っていた。順番がまわってくると、わたしは「エリカ・クレイマーです。ミラー警部と約束しています」と言った。
② 解説
「〜であふれかえる」は翻訳初心者に人気の高い表現です。しかし「あふれる」は「川の水があふれる」「通りに人があふれる」のように、容器や場所から何かがこぼれる、またはこぼれるほどたくさんある/いることを表します。ですから「椅子」が人であふれかえってはおかしいのです。誰もが日本語の感性を持っているはずですので、ほんとうはかすかな違和感を覚えるはずです。それを無視して、なんとなくよく見かける表現を借りて済ますのはよくありません。国語辞典で意味と用例を確認しましょう。そして、より適切な表現をさがしましょう。そのくり返しが翻訳力を鍛えてくれます。
「ガラス窓の向こうで苦しんでいる」というのも、違和感を覚えるはずです。どこか体の具合でも悪いように読めるからです。文脈上、住民とのやりとりに苦しめられていることがわかりますので、それが伝わるように表現したいものです。「苦しげな表情を浮かべた担当者」など、気持ちを表す方向で訳しましょう。
☆講師訳例
中に入ると、ロビーのオレンジ色の硬いプラスチック椅子は、住民たちに占領されていた。ほとんどが英語をしゃべらないが、おたがいに、あるいは厚いガラス窓の奥に座った困り顔の警官を相手に、忙しげに議論をしている。自分の番が来ると、わたしは「エリカ・クレイマーです。ミラー警部にお目にかかるお約束をしているのですが」と言った。
いかがでしたか。第3回では課題文の前半に取り組みました。連載第4回では課題範囲の後半に進みます。次回もぜひご覧ください!
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
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〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。