季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。
調べ物をしっかりと
第4回の出版翻訳入門ドリルでは、第3回の続きの課題文後半に取り組みます。第3回をまだ読んでいない方は、こちらも読んでみてくださいね。
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
訳してみよう! 課題文
〇課題文
Cooper, Massachusetts, is one of the largest and poorest communities in the commonwealth, and I drove this warm May evening to one of its three police precinct stations. In the station’s lobby the hard orange plastic chairs were filled with residents―most didn’t speak English yet they were busily arguing with each other or with the suffering on-duty officer behand a thick glass window. When it was my turn I said, “Erica Kramer, I have an appointment to see Captain Miller.”
The harried officer looked happy to confront an easy issue, and in a manner of minutes I was taken to the rear of the precinct station. C aptain Terrence Miller sat me down at his desk and passed over a clipboard with a sheet of paper.
“Look that over, sign at the bottom, and you’ll be on your way,” he said. Miller looked to be one the upside of fifty, with an old-fashioned buzz cut and a scarlet face.
The paper was a release form stating that one ERICA KRAMER was going to accompany OFFICER ROLAND PIPER as part of a civilian ride-along program, and that by signing, said release form, myself and my heirs promised never, ever to sue the city of Cooper if I was shot, knife, killed, mutilated, or dismembered.
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., ▼ The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)
では、レッスンをはじめます。
③ 小さな言葉も見落とさない
〇課題文
The harried officer looked happy to confront an easy issue, and in a manner of minutes I was taken to the rear of the precinct station. Captain Terrence Miller sat me down at his desk and passed over a clipboard with a sheet of paper.
〇生徒訳例
困り果てていた警官は簡単な用件でよかったと胸をなでおろし、数分後にはわたしは警察署の奥へ連れていかれた。テレンス・ミラー警部は自分の机にわたしを座らせて、紙をはさんだクリップボードをよこしてきた。
③ 解説
「困り果てていた警官」というのはとてもいい訳です。「よかったと胸をなでおろし」も文脈に沿った上手な訳だとは思いますが、ひとつ問題があります。それは原文の lookedを見逃してしまったことです。エリカの推測を表現しているのに、これでは警官自身の内面を描いたことになるのです。「らしく」や「ようだ」を添えましょう。
もうひとつ、気になったのは、「机にわたしを座らせて」という表現です。机の上に座ったように読めないでしょうか。原文を見ますと、onではなくatが使われていますので、机を前にして座ったのですね。位置は向かい側と思われます。
「紙をはさんだ」は間違いではないのですが、原文にはわざわざa sheet of paperと書いてあります。エリカは「一枚」であることに注意を引かれたのでしょう。
☆講師訳例
悩まされていた警官は、簡単な用件に対応できて、ほっとしたようだった。わたしはものの数分で、警察署の奥へと案内された。テレンス・ミラー警部は自分の机の向かい側にわたしを座らせ、一枚の紙を挟んだクリップボードを差し出した。
④ 辞書でていねいに確認を―文脈に合わせて論理的に訳しましょう
〇課題文
“Look that over, sign at the bottom, and you’ll be on your way,” he said. Miller looked to be one the upside of fifty, with an old-fashioned buzz cut and a scarlet face.
〇生徒訳例
「全体に目を通して、一番下にサインして。あとは好きにしていい」彼は言った。ミラー警部の見た目は五十代後半、昔ながらの丸刈り頭で、顔が真っ赤だった。
④ 解説
これからパトロールに同行させてもらうのに「好きにしていい」はずがありません。go one’s wayとまちがえてしまったのでしょう。on one’s wayは「出発して」という意味のイディオムです。“Be on your way”(出かけなさい)、“I must be on my way now”(もうおいとましなければなりません)のように使われます。wayをふくむイディオムはたくさんありますので、気をつけましょう。「そうすれば出発できる」あるいは「次の段階に進める」といったニュアンスを訳出できれば自然な流れになります。
on the upside ofは辞書には出ていませんが、そのまま語義どおりに解釈すれば、「~の上側に」という意味です。fifty(fiftiesではありません)の上側ですから「五十をこえている」「五十代」に見えると言っているのです。「顔が真っ赤だった」とは、何か恥ずかしいこと、あるいは腹の立つことがあったのでしょうか。文脈上、そうとはとれませんので、単に血色がよかったのだろうと思います。そういう赤さであることを伝えましょう。
☆講師訳例
「それに目を通して、いちばん下にサインをしてくだされば、手続きは完了です」警部はそう言った。年のころは五十歳代、赤ら顔で、頭を古くさい丸刈りにしている。
⑤ インターネット検索も利用しましょう
〇課題文
The paper was a release form stating that one ERICA KRAMER was going to accompany OFFICER ROLAND PIPER as part of a civilian ride-along program, and that by signing, said release form, myself and my heirs promised never, ever to sue the city of Cooper if I was shot, knife, killed, mutilated, or dismembered.
〇生徒訳例
その紙は譲渡証明書で、エリカ・クレイマーが民間人同乗プログラムの一部として、ローランド・パイパー巡査に同行する、と書かれていた。そして、この書類にサインするということは、わたしとわたしの相続人が、わたしが同行中に撃たれても、切られても殺されても、手足を切断されても、ばらばらにされても、クーパー市を決して絶対に訴えないと誓うことだと明記されていた。
⑤ 解説
release formは英和辞典には「譲渡証明書」と説明されていますが、このあとに説明されている書類の内容を見ると、何かを譲り渡す手続きではなさそうです。わたしは、「解放する」、つまり、行ってもいいという許可書かと思ったのですが、これもまた後半の内容と合いません。どうも英和辞典だけでは足りないようです。そこでインターネットで調べてみました。
まず、“release form”と、書類の内容にある“sue”をキーワードにして検索をかけてみました。すると、いろいろなrelease formの例が出てきました。たとえば乗馬クラブのレッスンを受ける際に、落馬してけがをしてもクラブを訴えないことに同意する、という内容の書類です。そこで今度は“ 負傷” “事前” “同意”をキーワードにして検索しました。うれしいことに「誓約書(免責同意書)」について説明したサイトがたくさんhitしました。これで決まりです。エリカがサインを求められた書類はまさにこれだったのです。
後半の誓約内容は誤訳なしに訳せていますが、少々読みにくいですね。エリカが自分の言葉でユーモラスに伝えている雰囲気も出したいところです。誰が訳してもすんなりとはいかない難しい文だと思いますが、改善すべき点をあげておきますと、まず、この文全体の主語と述語(「サインするということ(は)」と「~ことだ」)が離れすぎています。しかもその主述のあいだに、「相続人が + 誓う」という別の文が入り、さらにその中にも「わたしが + 撃たれても切られても」と、また別の主述が入り込んでいます。入れ子構造といって、読者に負担をかけてしまう文構造の典型です。といっても、じつはこれはわたしが若いころに読んで感銘を受けた『日本語の作文技術』(本田勝一著/朝日文庫)からの受け売りです。みなさんにもお薦めしたい名著です。
☆講師訳例
その紙は免責同意書で、エリカ・クレイマーなる人物が、一般市民同乗プログラムを利用して、ローランド・パイパー巡査に同行することが記載されていた。そしてこの文書への署名により、わたしが撃たれた場合、あるいはナイフで刺される、殺される、手足を切断される、ばらばらにされるなどした場合も、わたしとその相続人は決して、いっさい、クーパー市を訴えないことを約束する、と書かれていた。
今回はかなり盛りだくさんの内容になりました。短い文章でも学ぶことが多かったですね。小さな言葉も見落とさずにニュアンスをきちんと読み取り、辞書をていねいに調べること、辞書で解決ができなければインターネットで調べること。言葉で言うのは簡単ですが、どれもこれも時間をかけて演習を積むなかで身につけていく技術だと思います。間違えたり、調べが足りなかったりして、無念を味わうのも勉強のうち。自分を育ててくれる貴重な経験ととらえましょう。こつこつと努力を続けてください。
📚「小説を訳してみよう! 出版翻訳入門ドリル」
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〇各回はこちら
第1回 ストーリーを語ろう【前半】
第2回 ストーリーを語ろう【後半】
第3回 調べ物をしっかりと【前半】
ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。