• 翻訳

2023.08.24 UP

第22回 日本語でもドイツ語でも難しい「二人称(あなた)」

第22回 日本語でもドイツ語でも難しい「二人称(あなた)」

英語のみならず、独語、仏語、西語、伊語、中国語を独学で身につけ、多言語での読書を楽しんでいるという作家・翻訳家の宮崎伸治さんに、多言語学習の魅力を余すところなく語っていただきます!

【二人称の話】
「あなた」は日本語でもドイツ語でも難しい

2種類の「あなた」を使い分ける言語

日本語だけを話して暮らしていると取り立てて意識することはありませんが、外国人の目から見れば、かなり“おかしな言い方”をすることもあるのだろうなと推測できます。

例えば日本語の「あなた」。これ、よく考えてみればおかしくないですか。だって目上の人に向かって「あなた」とはいえないですよね? 例えば学生が先生に向かって「あなた」といったり、若手平社員が社長に向かって「あなた」といったりできないでしょう? なぜでしょうか。それなのに年下の妻が年上の夫に対して「あなた」といってもいいのです。というより、その場合はむしろ好ましい感じさえしませんか? 

ここで「デジタル大辞泉」で「あなた」を調べてみましょう。すると次のような定義が載っていました。
(1)対等または目下の者に対して、丁寧に、または親しみをこめていう。
(2)妻が夫に対して、軽い敬意や親しみをこめていう。

ね、言ったとおりでしょう。でもこういうことは日本人だからこそ感覚として分かるのですが、もし外国人に日本語の「あなた」の使い方を説明するとなると、この辺の説明が難しいでしょうね。しかも「あなた」と同じ二人称の人称代名詞「君(きみ)」もありますし、「君(きみ)」は女性はあまり使いません。そんな複雑な使い分けを日本人はいとも簡単にやってのけているのです。

で、逆もしかり。ドイツ語には日本語の「あなた」に相当する言葉として「Sie」「du」の2種類があり、使い分けなければならないのです。その辺のことをドイツ人に訊いてみると、「du」は自分と親しい人や対等または目下の人に使うらしく、お互い良く知らない同士の場合は「Sie」を使ったほうが無難とのこと。まだ親しくなっていないのに「du」を使ってしまうと、「馴れ馴れしい奴だな」と警戒されかねません。

私はその辺のことをよく知らなかったので、ある日ドイツ人の先生に話しかけるときに「du」を使ってしまい、すぐさま「Sie」と直されました。ひゃ~、外国人である私に対しても手厳しいんだなぁと思ったと同時に、手直ししなければならないほど失礼なことなのかなぁとも思いました。

「あなた」? 「きみ」? どちらを使う?

ヘルマン・ヘッセの自伝的小説『車輪の下』に彼が14歳のときに神学校の入試を受けに行ったとき、試験官からduではなくSieで呼ばれて(つまり“大人扱いされて”)驚いたことが次のように書かれてありました。

Herr Gott, im Examen hatte man »Sie« zu him gesagt!

この箇所を高橋健二氏は「驚いたことには、試験のとき、彼は『あなた』といわれたのだった」と訳しています。
しかし読者が①ドイツ語には「あなた」に相当する言葉がdu とSieと2つ存在していること、②Sieで呼ばれたことが大人扱いされていることになる、という2つのことを知っていればいいのですが、そういうことを知らなければ原文の意味が伝わらないでしょう。

私なら、「驚いたことには、試験のとき、彼は子供に使う『du(あなた)』ではなく、大人に使う『Sie(あなた)』で呼ばれたのだった」とするか、あるいは、大人扱いされたことだけを伝えるために「驚いたことには、試験のとき、彼は大人扱いされたのです」とでも訳すでしょう。

ここで日本語の「君(きみ)」とドイツ語の「Sie」と「du」、英語の「you」を比較してみましょう。記号の意味は、「○」は「使える」、「△」は「使える場合がある」、「×」は「使えない」、「◎」は「使うほうが望ましい」です。


じつは「あなた」に相当する言葉を2つ使い分けるのはドイツ語だけではなく、イタリア語、フランス語なども2つ使い分けます。ちなみにドイツ語の「Sie」と「du」に相当するのがイタリア語では「Lei」「tu」、フランス語では「vous」「tu」です。

「Sie」と「du」の違いをドイツ人の先生に尋ねていたところ、話が飛び火して「さようなら」にも丁寧な言い方と親しみを込めた言い方があるという話になりました。なんでも「Auf Wiedersehen」は丁寧な言い方で失礼になることはなくても、「Tschus!」は親しい友人同士が使うとのこと。彼曰く、「私は自分の生徒に対しては必ずAuf Widersehenを使います。だって生徒さんはお客さんですよ。Tschus!を使うのは失礼です」

レッスン終了時、彼が慇懃に「Auf Widersehen」といったので、私もオウム返しに「Auf Wiedersehen」と応えました。ところが彼、部屋を出て行く際に「Tschus!」といったのです。きっと条件反射なのでしょう。相手との関係性によって言葉を換えると頭で分っていながら条件反射まではコントロールできないってことですよね。ああ、ネイティブでもこれだったら、ノンネイティブの私が正確に使い分けられるようになるにはどれだけ修練がいるんだよ!? と思いました。

★前回のコラム

作家・翻訳家 宮崎伸治
作家・翻訳家 宮崎伸治Shinji Miyazaki

著書に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)などがある。ひろゆき氏など多くのコメンテーターに対して翻訳業界の現状を語る番組に出演した際の動画が無料で視聴できる。https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p3575(ABEMA TV)。また「大竹まことのゴールデンラジオ」に出演したときのようすが、次のリンク先のページの「再生」ボタンを押すことで無料で聴くことができる。http://www.joqr.co.jp/blog/main/2021/03/110.html