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2023.05.23 UP

下訳からスタート
一文一文に責任を持つ 大切さ/ 高橋佳奈子さん

下訳からスタート<br>一文一文に責任を持つ 大切さ/ 高橋佳奈子さん

季刊誌『通訳翻訳ジャーナル』の連載、翻訳者リレーコラムをWebでも公開しています!
さまざまな分野の翻訳者がデビューの経緯や翻訳の魅力をつづります。

高校時代、「将来の夢」というエッセイを書かされたときに、「翻訳家になりたい」と書いたことを覚えています。ただ、大学ではほかの言語を専攻したこともあり(しかも落第すれすれの劣等生だったこともあり)、翻訳者になる夢はいったんあきらめて、卒業後は一般企業に就職しました。

その後何度か転職し、最後に勤めた会社にはイギリス人役員の秘書として雇われたのですが、おもな仕事は日本語の文書の英訳でした。そこでビジネス英語を勉強し直す必要に駆られ、フェロー・アカデミーの通信講座を受講することにしました。

通信受講後通学へ
田口ゼミを受講

必要に迫られて必死で勉強したせいか、1年間の講座を終えるときには優秀生となり、通学講座で使えるクーポンをもらうことができました。それが結構な金額を授業料から割り引いてくれるクーポンだったこともあり、忘れかけていた翻訳者になるという夢も蘇ってきて、会社に通いながらほんの少しだけ翻訳の勉強をしてみることにしました。

通学講座を選ぶときに、フェロー・アカデミーではオープンセサミという短期の体験コースがあって、気になる先生の講座をお試しで受けることができました。私は日程的に出席できる唯一のコースだった田口俊樹先生の講座を受けることにしました。

翻訳の授業と言えば、静まり返った教室で講師が学生にテキストを一文ずつ訳させ、その訳の問題点を指摘してぼそぼそと例訳を述べていた大学時代の授業しか知らず、そのころ仕事で疲れはてていた私はどうにか居眠りせずにいられますようにと祈りながらお試し講座に出席しました。しかし、そこにいたのは想像していたのとはまるでちがう、大学の落研出身にちがいないと思うような軽妙洒脱なしゃべりで笑わせてくれる、なんとも愉快な人物でした。この先生の講座なら仕事のあとに出席しても居眠りせずにいられると思った私は、さっそく正規のゼミに申し込み、翻訳の勉強をはじめることにしました。

指摘だらけの原稿
訳者の責任に気づく

当時田口先生のゼミはミステリー・ゼミということで、生徒はミステリー好きが多かったのですが、私は先生のしゃべりに魅せられて入学したせいか、まだミステリーへの熱量は少なかった気がします。先生にはそれを見透かされていたのか、入学から何年かしてご紹介いただいた仕事は、『子供を亡くしたあとで』(朝日新聞社)というルポルタージュの翻訳でした。そのころはまだ下訳の経験もそれほど多くなく、自分にできるかどうか不安でしたが、当時朝日新聞社の翻訳出版部門の責任者がご自身で翻訳もする方だったので、訳文を丁寧に見ていただけることになり、下訳をするつもりで翻訳に取り組むことができました。

会社勤めをしながら3カ月足らずでどうにか全文を訳し終え、満足感とともに訳稿を提出したのですが、ゲラになって戻ってきた原稿を見て絶句します。とんでもなく出来の悪い翻訳に、見てくださった方も頭を抱えたのでしょう。余白を埋めつくすほど鉛筆の書き込みがありました。指摘のあまりの多さに絶望して、「もうそちらで直接赤を入れてください」と泣きを入れたところ、「これは高橋さんの原稿ですから」と静かに返されました。下訳気分で訳していた私も背筋がすっと伸びる感じでした。一人まえの翻訳者として扱ってもらえたのはうれしかったものの、翻訳者として名前が載る人間は最終的に訳文に責任を持たなければならないのだと釘を刺された気もしました。

その後も何冊か同様にびしばしと鍛えていただき、デビュー後も長々とゼミにいすわって田口先生にご指導いただいたおかげで、じょじょにほかの出版社からもお仕事をいただくようになり、現在にいたります。最近はゲラに鉛筆を加えられることもそれほど多くなくなりましたが、あのときさわれば手が汚れるほど真黒になって返ってきゲラと、「これは高橋さんの原稿ですから」ということばを忘れることはありません。今も一文一文に責任を持とうという心がまえで翻訳に向き合っているつもりです。

※ 『通訳翻訳ジャーナル』2021年秋号より転載

高橋佳奈子
高橋佳奈子Kanako Takahashi

東京外国語大学ロシア語学科卒。『「ちがい」がある子とその親の物語』(海と月社)、『ヴァージンリバー』(二見書房)、『バンクシー』(新星出版社)など訳書多数。師匠の田口俊樹氏のエッセイ『日々翻訳ざんげ』(本の雑誌社)は翻訳者を志す人にとっては必読の書。