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季刊誌『通訳翻訳ジャーナル』の連載、翻訳者リレーコラムをWebでも公開しています!
さまざまな分野の翻訳者がデビューの経緯や翻訳の魅力をつづります。
異文化を知ることも翻訳の醍醐味
英米のミステリを翻訳するようになって気がつけば早30年。びっくりです。翻訳への第一歩を踏みだしたのは20代後半。当時は毎日定時に退社するお気楽なOLでしたが、生来の怠け者なので、なんとか毎日出社せずにできる仕事はないものかと模索し、行き着いたのが翻訳でした(不純な動機ですみません!)。キングやクーンツなどのミステリが大好きだったので、迷わず翻訳学校のミステリクラスに通いはじめたのです。講師は今や業界の重鎮ですが、当時は初々しい青年だった田口俊樹先生。ご多分にもれず、最初は英文和訳と翻訳は似て非なるものだというあたりまえの事実に打ちのめされ、落ちこむことばかり。おもしろさがわかってきたのは2年目にワークショップ形式の選抜クラスに進級してからで、そこで現在第一線で活躍する芹澤恵さんや吉澤康子さんと切磋琢磨したのち、翌年に田村義進先生のクラスに移ってさらに翻訳の奥深さに目覚めます。原文の意味を過不足なく的確に伝え、なおかつそれを切れのある短い訳文で美しく表現するセンスに惚れこんで、そこからは本気モードに。そして下訳を何冊か経たあと、晴れて東京創元社から新人作家のシリーズものの仕事を任されたのでした。
たいした志もなかったわたしがこれほど長く続けてこられたのは、ひとえに幸運な出会いが重なったおかげです。名翻訳家である二人の師匠と出会ったこと、優秀な仲間に恵まれたこと、最初に手がけた警察小説シリーズが、家族や宗教や社会問題を深く真摯に掘り下げた上質なミステリであったこと、それを伝説の名編集者、松浦正人氏に担当していただいたことなどなど。ユダヤ教が物語の重要な核となるシリーズで、まだインターネットのない時代、ユダヤ教会堂シナゴーグの礼拝に参加したり、イスラエル大使館に通ったりして疑問をひとつずつ解明していきました。こうして異文化を知ることも翻訳の醍醐味のひとつであり、好奇心が旺盛で調べ物を楽しめることは文芸翻訳者の大事な資質だと思います。苦労の末に仕上げたこのフェイ・ケラーマンの『水の戒律』(東京創元社)で、バベル翻訳大賞新人賞をいただいたことは大きな心の支えになっています。
暮らしと翻訳のワークライフバランス
その後は好景気にも助けられて順調に仕事をいただき、明けても暮れてもワープロ(当時はこれ)に向かう日々。警察ものや私立探偵もの、ホラーやサイコサスペンスやロマンチックサスペンスもありました。作品ごとにがらりと異なる世界に没入し、原文からキャラクターを造形し、想像力と創造力を駆使して登場人物たちを自由に動かす!!こんなにおもしろい仕事はありません。小説家がいちばん心を砕くという冒頭と最後の一文を考えるときの高揚感や、うまくはまったときの達成感もちょっとやみつきになります。
とはいうものの、なにしろ根が怠け者なので、少しゆるいペースで仕事をしたいと思うようになりました。ネット環境さえあれば地球上のどこでも仕事はできるし、残り時間もだんだん少なくなってくる。そこで9年前に思いきって東京から憧れの北海道に移住しました。家賃が安い、自然が豊か、食べ物とビールがおいしい、人が大らかで温かい、夏が涼しい(ここ大事!)と、今のところいいことずくめ。同業者のみなさんにも可能ならぜひおすすめしたい。地元の読書会や保護猫カフェのボランティア、趣味のバレエやヨガを通じて友人も増えました。気持ちのよい季節は外に出かけ、冬は家にこもって読書や映画や音楽や手芸を楽しみながら、仕事もマイペースで続けるのが目標です。心地よい暮らしと翻訳の仕事のどちらもわたしには欠かせないもので、できればその両者がいい影響を与え合うようにしたい。そんな理想の「ワーク・ライフ・バランス」をめざして、今日も道草を食いながら千里の道をのんびり歩いています。
※ 『通訳・翻訳ジャーナル』2022年秋号より転載
英米ミステリ翻訳者。富山県生まれ。主な訳書に『マーダー・ミステリ・ブッククラブ』(C・A・ラーマー著/東京創元社)、『容疑者』(ロバー ト・クレイス著/東京創元社)、『チェスナットマン』(セーアン・スヴァイストロプ著/ハーパーブックス)、『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー著/早川書房)、『ビッグ・ドライバー』(スティーヴン・キング著/文藝春秋)など。東京から北海道へ移住し、猫二匹と北国暮らしを満喫中。