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2023.05.29 UP

第6回 理系の天才たちの専門的な会話を 「らしく」訳すには?
『ワスプ 1』(最終回)

第6回 理系の天才たちの専門的な会話を 「らしく」訳すには?<br>『ワスプ 1』(最終回)
*『通訳・翻訳ジャーナル』2023年秋号より転載

アメコミ翻訳家の御代しおりさんが、翻訳の工夫や苦労&アメコミ作品の魅力を語り、季刊「通訳翻訳ジャーナル」で人気を博した連載「アメコミ翻訳WONDERLAND」をWebでも公開!

理系女子が主人公の新シリーズ

最終回である今回はャスダ・シゲルさんと私の共訳である『ワスプ』を取り上げたいと思います。こちらは『THE UNSTOPPABLE WASP』という原題で、MCUでお馴染みのジャネット・ヴァン・ダイン扮するワスプではなく、ジャネットの養子であるナディア・ヴァン・ダインという少女が、主人公アンストッパブル・ワスプを務めるシリーズです。

『ワスプ1』
『ワスプ1』
ジェレミー・ウィットレー 作/グリヒル 画
ャスダ・シゲル、御代しおり 訳
ヴィレッジブックス

彼女の特徴はなんといっても理系女子であること!
科学の才能に恵まれたナディアは同じく理系の天才少女達を集めて研究機関「G.I.R.L.」を設立。仲間と共に科学の力を駆使したヒーロー活動を始めます。
そういった作品であるため、出てくる会話も理系らしい単語や説明が多め。アーティストのグリヒル先生手がける大変可愛らしい絵柄とは裏腹に、根っから文系人間として生きてきた私にとってはなかなかヘビーな翻訳作業を強いられる一作となりました。

たとえば第一話が始まって早々に、車の走る仕組みからドリフトが起きるまでを説明するシーンがあります。
下に台詞の一部を抜粋してみます。

<原文①>
The principle force that makes acceleration, breaking and steering possible is friction. The road and the rolling tires push against with each other with equal force in opposite directions.
<訳文①>
アクセル、ブレーキ、ステアリングを可能にする原理は摩擦力。道路と回転するタイヤは同じ力で押し合っているの

<原文②>
When you intentionally oversteer to lose friction while maintained control of the car, that is known as ”drifting.”
<訳文②>
意図的に横滑りさせて摩擦をなくし進行方向を調整させるのはいわゆる『ドリフト』ね。

ここからすでに大苦戦。車はなぜ走るかを説明する日本語の解説サイトを読みこんで、知識と言い回しを頭に叩き込まねばなりませんでした。

専門家の台詞として違和感のない表現を探す

また、マーベル世界に存在するピム粒子という物質を利用したガン細胞除去を説明する台詞も翻訳に時間のかかった箇所。ここも一部抜粋すると
“If we can somehow code the Pym particles to recognize P53 and only activate in cells without it…”
「ピム粒子が細胞内のP53の状態を区別できるようにして、変異のない細胞だけで活性化できれば…」と訳しました。

そもそも言っている内容を理解するのに四苦八苦させられるのは当然として、意外と難しかったのが専門用語ではない部分の翻訳です。というのも、“code” “recognize” “activate” など複数の訳語がある英単語を、どういった言い回しに当てはめれば分野の専門家が見ても自然な説明文になるかが初見ではわからなかったのです。何しろ天才同士の会話なので、ここで違和感が出ては彼女達の沽券に関わります。

ですので、こちらの箇所もまた医学分野の日本語サイトをあちこち覗き、完成形に近づけていきました。こういった理系らしい会話は他にも作品の随所に見られ、その度に見慣れない単語と自然な言い回しの追求に時間をとられたものでした。

…といった風に今回は天才理系女子達の日常会話に苦戦したわけですが、こういった教養が散りばめられたコミックというのは少なくありません。ハイテク知識から宇宙の成り立ち、昨今の世情と政治について、各宗教とそこに基づく文化のいろは、人種問題からLGBTQのリアルな現状に至るまで、様々な要素が溶け込んでいるのがアメコミの基本。

それに加えて登場キャラクター達の持つ長い歴史の知識も必要なアメコミ翻訳は見た目以上に多くを求められる仕事なのかもしれません。でもそれだけにやりがいのある分野だとも感じます。是非多くの方に関心を持っていただきたい世界であり、このコラムを通じてそういったアメコミの魅力が少しでも伝わっていれば幸いです。

それでは、これまで私の拙い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました!
これからも皆さまの翻訳ライフに幸多からんことをお祈りしております。

ほかの訳例も紹介!

〇理系らしく、かつ自然な言い回し

I’ve only got enough juice to go immaterial once
→燃料の関係で透過は1度限りよ

I think I made a breakthrough on the Pym particle suspension mixture.
→ピム粒子の効果を止める混合物の突破口が開けたかもしれない

御代しおり
御代しおりShiori Miyo

アメコミ翻訳家。青山学院大学文学部歴史学科卒。大学在学中からアルバイトでアメコミの下訳を始め、出版社勤務を経てフリーランスとして独立。2010年に『バットマン:ダークビクトリー vol.1』(ヴィレッジブックス)で共訳デビュー。訳書に「グウェンプール」シリーズ(ヴィレッジブックス)など。