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2023.07.07 UP

第2回 ストーリーを語ろう【後半】

第2回 ストーリーを語ろう【後半】

季刊『通訳翻訳ジャーナル』本誌で連載し、ご好評をいただいていた「出版翻訳入門ドリル」がweb版になって登場!出版翻訳家の布施由紀子さんと課題文に取り組みます。

ストーリーを語ろう

第2回の出版翻訳入門ドリルでは、第1回の続きの課題文後半に取り組みます。第1回をまだ読んでいない方は、こちらも読んでみてくださいね。
第1回 ストーリーを語ろう【前半】

訳してみよう! 課題文

〇課題文
 The night I went to work, I gathered up my reporter’s notebook and heavy purse and then went to check on my husband, Peter. My sweetie-pie was sitting up in bed, his left leg in a cast. The bruises about his eyes were beginning to fade, though they still had a sickish green-yellow aura. The television was on and a cell phone was clapsed in his right hand.
 “You doing okay?”I asked.
 He grinned, his teeth showing nicely through his puffy lips. “Like I’ve been saying, as well as could be expected.”
 I kissed his forehead. “You okay moving around by yourself?”
 “Of course.”
 “Good,”I said. “But you be careful. You go and break your other leg, that means you’re stuck in bed. And I don’t think this whole ‘in sickeness and in health’covers bedpan duty.”
 He moved up against the pillows, winced. “You could have warned me earlier.”
 “But you wouldn’t have listened.”
 “And why’s that?”
 “Because you’re madly, hopelessly, and dopily in love with me, that’s why.”
(出典:Harlan Coben, Otto Penzler ed., ▼ The Best American Mystery Stories 2011. Mariner Books. 2011)

では、レッスンをはじめましょう。ご自分の訳と比べながらお読みください。

③ 心理に合った表情を描き出す

〇課題文
 “You doing okay?” I asked.
 He grinned, his teeth showing nicely through his puffy lips. “Like I’ve been saying, as well as could be expected.”

〇生徒訳例
「調子はどう?」わたしは尋ねた。
 彼は腫れた唇のあいだからきれいな歯をむき出して、にやりと笑った。「ずっと言ってるとおり、期待されうるかぎりの順調さだよ」

③ 解説
原文には、「きれいな歯」とは書いていません。歯を nicely に見せたのです。唇が腫れているけれども「歯をじょうずに/器用に」見せたのでしょう。しかしそれより気になるのは、彼がなぜこの状況で「歯をむき出してにやりと」笑うのか、という問題です。妻の愛も一気に冷めてしまうでしょう。grin は「歯を見せて微笑む」意なので、「にやり」と「にっこり」、どちらもありえます。ここはもちろん、sweetie-pie らしく、にっこりしたのでしょう。主人公の目線で彼を見ることができているか、文章全体から彼の人物像をイメージできているかが問われます。ちなみに文法上、teeth showing は「歯が見えている」意ですので、もちろん、「彼が微笑み、腫れた唇のあいだから、すてきな感じに歯がのぞいた」のように訳してもかまいません。

「期待されうるかぎりの順調さだよ」というのは、いかにも直訳調ですが、 解釈は完璧です。それはすばらしい。ここを完全な一文に書き改めると、I’m doing as well as I could be expected となります。比較表現は苦手な人が多く、「少しずつ回復しているよ」などと、文脈に合いそうな訳を適当につけてお茶を濁そうとしがちです。しかしそれでは英文解釈力も日本語文章力も伸びません。逃げずに挑みましょう。「これ以上は望めないほど順調だよ」と展開できれば、一歩前進です。

☆講師訳例
「だいじょうぶ?」わたしはきいた。
 ピーターは、腫れた唇のあいだからじょうずに歯をのぞかせて、にっこりした。「ずっと言ってるように、絶好調だよ」

④ せりふは論理的に、日常的な言葉で

〇課題文
 I kissed his forehead. “You okay moving around by yourself?”
 “Of course.”
 “Good,” I said. “But you be careful. You go and break your other leg, that means you’re stuck in bed. And I don’t think this whole ‘in sickness and in health’ covers bedpan duty.”

〇生徒訳例
 わたしは彼の額にキスをした。「もう勝手に動きまわっても平気なの?」
「もちろん」
「いいでしょう」わたしは言った。「でも気をつけてね。もし反対の足も骨折したら、ベッドから出られなくなるのよ。それに、『病めるときも健やかなるときも』の中には、尿瓶の交換業務はふくまれていないと思うの」

④ 解説
同居している夫に向かって、勝手に(=医師の許可を得ずに)動きまわってもいいのかと、このタイミングで尋ねるのは不自然でしょう。by oneself は「独力で」という意味です。主人公は夫を気遣い、ひとりで手洗いに立ったり台所に行ったりできるかと、確認しているのです。せりふの奥に流れている論理を正確に読み取りましょう。

『病めるときも健やかなるときも(in sickness and in health)』は結婚の誓いの中にある言葉ですね。これだけではわかりにくいので、訳注代わりに説明を書き添える必要があるでしょう。あるいは、この語句そのものを「結婚の誓い」と訳す手もあります。

bedpan duty は「尿瓶の交換」ではなく、ベッド上で使う「差し込み便器」にまつわるお世話ですけれども、「業務」は硬いですね。介護用語の「排泄介助」を使ってもいいですが、「下の世話」という便利な婉曲表現もあります。せりふは誰が読んでも理解できるように、そして説明的になりすぎないように工夫しましょう。

☆講師訳例
 わたしは彼の額にキスをした。「ひとりで動ける? だいじょうぶ?」
「もちろん」
「よかった」わたしは言った。「でも用心してね。うっかりもう片方の脚も折ってしまったら、寝たきりになっちゃうわよ。“ 病めるときも健やかなるときも” って結婚の誓いはしたけど、下の世話までするって約束した覚えはないからね」

⑤ 動作はしっかり読み解いて具体的に表現する

〇課題文
 He moved up against the pillows, winced. “You could have warned me earlier.”
 “But you wouldn’t have listened.”
 “And why’s that?”
 “Because you’re madly, hopelessly, and dopily in love with me, that’s why.”

〇生徒訳例
 彼は枕に向かって動き、あまりの痛さに顔をしかめた。「もっと早く警告することもできただろう」
「でも、言ってもあなたは聞かないでしょう」
「どうして?」
「だってあなたは、ものすごくわたしのことを愛している。だからよ」

⑤ 解説
「枕に向かって動き」という動作がイメージできません。against の意味を確認しましょう。ピーターはベッドに起き上がっていたのですから、きっと pillows(枕かもしれませんが、複数形なのでたぶんクッション)に「もたれて」いたのでしょう。やってみるとわかりますが、そうして座っていると、ずり落ちてきます。そこで彼はクッションに背中をつけたままで、上半身をずり上げ、しっかり座り直そうとしたのです。英語をただ日本語に変換するのではなく、読者が具体的な動作を思い浮かべられるように工夫してください。

「痛さのあまり」は原文にない表現なので、書き足さずに、読者に理由を想像してもらいましょう。

2行目の「あなたは聞かないでしょう」というせりふは、夫の性格を指摘したように読めますが、原文では、過去のある時点での仮定を表すwouldn’t have ~が使われていますので、「( 前もってわたしが警告したとしても)聞かなかったでしょう」というのが正しい意味です。助動詞表現には気をつけましょう。

最後のせりふの「ものすごく(愛している)」は、madly, hopelessly, and dopily と、原文で三語も並んでいるのに短くまとめていて、もったいないと思います。表現力、語彙力を磨くチャンスと思ってがんばりましょう。「猛烈に、どうしようもなく、ばかみたいに」のように表現したいところです。

☆講師訳例
 ピーターはクッションに背中をつけたままで体勢を直し、顔をしかめた。「それ、もっと早く言っといてほしかったな」
「でも、言っても聞く耳持たなかったと思う」
「なんで?」
「だってあなたは、めっちゃめちゃ、どうしようもなく、わたしにメロメロだからよ」

さあ、どうですか。「ストーリーを語る」とはどういうことか、イメージできたでしょうか。翻訳入門というと、すぐに役立ちそうなノウハウを求める人が多いのですが、わたしは、この語ろうとする姿勢こそが出版翻訳の出発点だと思っています。読者の顔を思い浮かべて語りかけましょう。読者を物語の時の流れに引き込み、登場人物の気持ちや表情、動作をリアルに伝える表現をさがすのです。日ごろから本をたくさん読み、多様な表現に触れることを心がけましょう。

講師 布施由紀子
講師 布施由紀子Yukiko Fuse

ふせ・ゆきこ/出版翻訳家。フェロー・アカデミー講師。訳書に、『ライトニング・メアリ』『壁の向こうの住人たち』(ともに岩波書店)、『アウグストゥス』『ブッチャーズ・クロッシング』(ともに作品社)、『ブラッドランド』(筑摩書房)、『1493』『魔術師と予言者』(ともに紀伊國屋書店)、『日本のカーニバル戦争』(みすず書房)などがある。