段ボール箱いっぱいの
海外ミステリで翻訳修業
27歳で高校の英語教師に転職。教員生活の傍ら翻訳を始め、早川書房の『ミステリマガジン』で短篇を訳すようになる。
だが、日本の純文学にどっぷり浸かってきたため、海外ミステリには不案内。編集部にお願いして、海外ミステリを段ボール箱にまとめて送ってもらい、ディック・フランシス、ジャック・ヒギンズ、ロバート・B・パーカー、デズモンド・バグリィ、アリステア・マクリーン、ドナルド・E・ウェストレイク、スティーヴン・グリーンリーフなど、名の知れた作家を一通り読んだ。
「ディック・フランシスは菊池光さんの訳文の文体、いわゆる菊池節が当時の自分には合わなくて……。ところが、菊池さん訳のロバート・B・パーカーを読んだら、この人すごい上手じゃん!って(笑)。訳し方の良い・悪いは、自分の好みとは別なんですね。でも、数年前に読書会で菊池訳のフランシスを読んだら、特におかしいと思わなかったんです。理由は謎のままです」
翻訳業は多忙を極め、読書は仕事関連の本に集中するように。翻訳は編集者から依頼される作品が多いが、持ち込み作品―読書で惚れ込んだ作品―のなかに特に胸に響いた作家がいる。チャールズ・バクスターだ。
「80年代に無駄をそぎ落とした文体で、身近な日常生活を描く『ミニマリズム』と呼ばれる作家がアメリカで登場します。バクスターもそのひとり。91年に僕が訳した短篇集『世界のハーモニー』の表題作は、挫折したピアニストの自己実現の話で、僕自身も翻訳一本で身を立てようとしていた頃だったから余計にグッときました」
経験でしかものを言えなくなる人生は寂しい。
「本を読まないと、自分の体験だけが世界のすべてになり、頑固な爺さん婆さんになっていく。そうはなりたくなかったし、自分はそんなふうにはなっていないと思えるのは、やっぱり本を読んできたからだと思いますね」
※ 『通訳翻訳ジャーナル』2019年冬号より転載 撮影/合田昌史