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2024.08.05 UP

第6回 多文化を映す名誤訳の伝統

第6回 多文化を映す名誤訳の伝統
※本連載は『通訳翻訳ジャーナル』2015年秋号~2017年夏号掲載のコラムを一部加筆・修正して再掲載しています。

アメリカ文学の研究者である、立教大学文学部 教授の舌津智之先生が、英語圏の小説や映画、曲のタイトルや、多くの人が一度は聞いたことがある名台詞・名フレーズの日本語訳に見られる独創的な「誤訳」に着目して、その魅力を解説します!

さまざまなルーツを持つ作家の作品の邦題

本連載では以前、アメリカ文学編として、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』、ケン・キージーの『カッコーの巣の上で』、そしてトルーマン・カポーティの『冷血』という3作品を取り上げた。今回はその第2弾になるが、奇しくもヘミングウェイとカポーティの作品を再度選択することになった。もうひとりは、本連載では初となる非・白人の創作者である。言うまでもなく、アメリカは多文化主義の国であり、さまざまな人種的・民族的ルーツを持った作家が今なおますます活躍している。そうした事情を映すような作品の邦題にもいくつか注目してみよう。

「清潔な、明かりの心地よい場所」

“A Clean, Well-Lighted Place”(1933年)

言葉の長さを正しく訳せているか?

近年、アメリカの古典小説を次々新訳で日本に紹介し直している柴田元幸が、『こころ朗らなれ、誰もみな』(2012 年)と題するヘミングウェイの短編集を出した際、その冒頭に配したのが上記邦題の一編である。すでに多くの邦訳がある作品だが、原題中の形容詞である well-lighted は、従来、「明るい」もしくは「照明のよい」と訳されていた。
本作は、薄暗い酒場ではなく、夜でもしっかり明かりのついているカフェに安らぎを覚える老人の話だが、well-lightedwell はあくまで明るさの度合いを示す副詞であり、明るさの質を示すとは考え難い。が、これをあえて「心地よい」と誤訳した柴田元幸は、作品中のカフェが「清潔で心地よい(clean and pleasant)」店であること、そして「明かりがとても良い(The light is very good)」と描写されていることをふまえたのだろう。さらに、柴田訳の魅力は、単語の長さを聞き分けている点である。
英語では、1音節の clean のあとに3音節の well-lighted が続くので、日本語でも、原題のリズムに合わせるなら、「清潔な」の次には相当音節の長い言葉がきてしかるべきなのだ。

『アメリカの息子』

Native Son(1940年)

家族としての黒人/国人

アフリカ系アメリカ人作家、リチャード・ライトが人種差別の不条理を告発した抗議小説である。英和辞典で son を引けば、国家や組織の「一員」あるいは「住人」、「国人」の意味が載っており、タイトルを正しく訳すなら『生まれ故郷の一員』とでもすべきところだろう。
しかし、定着している邦題は、native を「アメリカ」と特定したのはまあ良いとして、son を「息子」としている点、素直な直訳のように見えて、言葉の用法としては誤訳だと言わざるをえない。けれども、主人公の黒人男性が、アメリカに生まれた一市民としての自由や権利を保障されぬまま、意図せず罪を犯して最後は死刑に処せられる、というプロットに照らすなら、「息子」を前面に出して家族のイメージを強調する邦題は、アメリカという名の「親」が抱える暴力性――血を分けた子を見殺しにする残忍さ――を読者へと効果的に印象づけることとなる。
なお、日本語には「国人」という言葉があるので、これを「くにびと」ではなく「こくじん」と読み、『アメリカの国人』とすれば、ちょっと人種的なひねりの効いたタイトルになるだろうか。

『遠い声、遠い部屋』

Other Voices, Other Rooms(1948年)

受け継がれる「遠い部屋」

このタイトルフレーズは、孤独な人間の脳裏に浮かぶ、目の前の現実からは遊離した記憶や強迫観念のことを指している。小説中、このフレーズを口にするのは、隠遁生活を送る黒人の脇役である。むろん、ふつうに訳せば、『他の声、他の部屋』とか『別の声、別の部屋』になるところだが、英語の other を「遠い」と訳したのは英断である。その遠い何かとは、カポーティ一流のゴシック的な悪夢かもしれないし、今は失われたロマンティックな憧れであるのかもしれない。近年、「遠い目」という日本語が市民権を得るようになったので、「遠さ」には、よそよそしさや冷たさより、届かぬ思いの切なさを感じ取る読者も多いだろう。
ともあれ、直訳の「他」や「別」ではあまりに素っ気なく、カポーティが描く人間の密やかな情緒性をすくい取ることはできない。ちなみに、現代パキスタン系作家のダニヤール・ムイーヌッディーンは、In Other Rooms, Other Wonders という連作短編集で2009 年の全米図書賞を受賞したが、これに『遠い部屋、遠い奇跡』という邦題を付した訳者の藤井光は、当然、カポーティの『遠い部屋、遠い声』を意識していたわけである。

★前回のコラム

立教大学教授・米文学者 舌津智之
立教大学教授・米文学者 舌津智之Tomoyuki Zettsu

1964年生まれ。東京大学大学院修士課程、米国テキサス大学オースティン校博士課程修了(Ph.D.)。専門はアメリカ文学、日米大衆文化。主な著書に、『どうにもとまらない歌謡曲―七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫、2022年)、『抒情するアメリカ―モダニズム文学の明滅』(研究社、2009年)、共訳書に『しみじみ読むアメリカ文学』(松柏社、2007年)など。