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2023.09.29 UP

『耳をすませば』は英語に訳せない!? 見事に翻訳された日本の映画

『耳をすませば』は英語に訳せない!? 見事に翻訳された日本の映画
※本連載は『通訳翻訳ジャーナル』2015年秋号~2017年夏号掲載のコラムを一部加筆・修正して再掲載しています。

アメリカ文学の研究者である、立教大学文学部 教授の舌津智之先生が、英語圏の小説や映画、曲のタイトルや、多くの人が一度は聞いたことがある名台詞・名フレーズの日本語訳に見られる独創的な「誤訳」に着目して、その魅力を解説します!

第4回 創意工夫をもって英訳された邦画タイトル
『仁義なき戦い』『耳をすませば』など

日本映画の英訳にも苦労と工夫の痕跡が

今回はいつもと趣向を変え、日本語から英語への「偉大なる誤訳」に注目してみたい。

取り上げるのは邦画の英訳タイトルだが、もちろん、日本独自の文化に根差した言葉を横文字に変換するのは決して容易ではない。例えば、いくつかの黒澤映画のように、『乱』や『生きる』がそのままRan やIkiruと訳される(?)例もある。が、洋画タイトルの和訳と同様、邦画タイトルの英訳にも、しばしば創造的な苦労と工夫の痕跡を見出すことができる。

お茶漬けの主役は米? お茶?

The Flavor of Green Tea over Rice

『お茶漬の味』(1952年)

黒澤明と並び、海外で絶大な評価を受けている日本の映画監督といえば、小津安二郎である。通常、「お茶漬け」を直訳するなら rice with green tea であろうが、本作の英訳版は米よりお茶を強調し、green tea over riceと「誤訳」を当てている。お茶漬けのお茶は、緑茶ではなく焙じ茶の可能性もあるが、日本茶を意味する英語はひとまず green tea しかないために、英訳版では原題にない「緑」の新しさやみずみずしさが前面に出る。

また、greenとtea は同じ長母音を持ち、その母音韻(assonance)が詩的な響きを醸し出す。映画では、身近な日常の愛しさを象徴するお茶漬けだが、それが身近でない英語圏の観客に、その日常性や庶民感覚を伝えるのは難しい。代わりに、いわば異国情緒とリリシズムで勝負したのが英訳版と言うべきか。

また、英訳により、お茶漬けの「味」がお茶の「香り」(flavor)へと変換されたことも、抒情的なやわらかさを生み出している。ちなみに同じく小津の監督作品である『秋刀魚の味』はさすがに直訳不能だったようで、こちらは、An Autumn Afternoon と意訳されることになった。

不在という名の存在

Battles without Honor and Humanity

『仁義なき戦い』(1973年)

言語哲学者の佐藤信夫は、海の波は「人魚ではない」と語る中原中也の詩について、存在を否定されたはずの人魚が、それでも不在のイメージとしてむしろくっきり浮かび上がることを指摘する。同様の逆説は、深作欣二監督、菅原文太主演による映画『仁義なき戦い』のタイトルにもあてはまる。

「仁義なき」と言った時点で「仁義」という言葉は厳然として目の前にあり、「ない」と言われればなおのこと、不在が存在として意識される。本作は、仁義を美化する任侠映画ではないが、「仁義のなさ」を審美化する単なる暴力映画でもない。そして、仁義はやはり問題なのだという暗黙のメッセージを、英訳タイトルは原題以上に可視化する。

4音節の「戦い」という言葉が battles の2音節に半減する一方で、3音節の「仁義」は、3語7音節の honor and humanity へと膨らんで、その(不在のはずの)存在感を際立たせているからだ。

そもそも、暴力団関係の用語としての「仁義」はcode of conductくらいの意味であろうが、それをあえて「名誉と人間性」と表現したのもある意味偉大なる誤訳と言ってよいだろう。

英語では「耳をすます」ことができない

Whisper of the Heart

『耳をすませば』(1995年)

ジブリ映画には多くの場合、ほぼ直訳に近い英訳タイトルが付されているが、Whisper of the Heart は、日本語に再度訳すなら『心のささやき』というフレーズである。これは、意図して直訳を放棄している以上、「誤訳」とは呼べないかもしれないが、単なる意訳とも言い切れない必然性を身に帯びた題名である。

というのも、実は、「耳をすます」という日本語は、英訳できないのである。なるほど、strain one’s ears という表現はあるが、無理矢理感・嫌々感のにじむ strain という動詞では、「すます」という日本語の清々しさは伝わらない(「目を凝らす」なら、strain one’s eyes がぴったりなのだが)。

あるいは、listenに強意の副詞を添えても、carefully やhard や intently など、いずれも「一生懸命」なニュアンスが漂ってしまい、「耳をすます」という言葉が示唆する素直に自然なやさしさは表現し切れない。

そこで、「耳をすませば」聞こえるのは(いくぶんベタではあるが)「心のささやき」だと「訳す」なら、この映画が繊細に描くほのかな初恋の主題とも美しく響きあう。『耳をすませば』が If You Listen Carefully と「正しく」英訳されたなら、原題に宿る透明感や清澄感が失われてしまうのだ。

★前回のコラム

立教大学教授・米文学者 舌津智之
立教大学教授・米文学者 舌津智之Tomoyuki Zettsu

1964年生まれ。東京大学大学院修士課程、米国テキサス大学オースティン校博士課程修了(Ph.D.)。専門はアメリカ文学、日米大衆文化。主な著書に、『どうにもとまらない歌謡曲―七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫、2022年)、『抒情するアメリカ―モダニズム文学の明滅』(研究社、2009年)、共訳書に『しみじみ読むアメリカ文学』(松柏社、2007年)など。