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2025.01.27 UP

第8回 全世界が注目!「トランプ大統領就任式」の通訳

第8回 全世界が注目!「トランプ大統領就任式」の通訳

放送通訳者としてCNNや民放で活躍する柴原早苗さんは、アメリカ大統領選のニュースや就任演説の通訳も多数担当してきました。
「放送通訳者」の視点からとらえたアメリカ大統領選挙の話題や選挙に関わる英語表現などを紹介します。

みなさん、こんにちは!放送通訳者の柴原早苗です。ついに、日本時間2025年1月21日火曜日夜中過ぎにトランプ大統領の就任式が執り行われました。


(フルバージョン・先発通訳者が筆者)


(トランプ大統領就任演説・先発通訳者が筆者)

私は4年前のバイデン大統領就任式に引き続きお声がけをいただき、TBS NEWS DIGにて同時通訳を担当する機会に恵まれました。

そこで今回は、就任式に向けての準備、当日から終了まで順を追って振り返ってみます。

大統領就任式の通訳に向け、まずは事前の準備

(1)業務依頼について
私自身、1年ほど前から就任式の日程だけは意識していました。と言いますのも、世界情勢を左右するアメリカ大統領が新たに誕生するというのは、誰にとっても歴史的瞬間であるからです。そのbig dayにもし通訳をする機会を頂ければ、私の仕事人生においても非常に励みになります。ただ、「業務依頼」というのは局やエージェントの事情やタイミングなど、様々な要素の積み重ね。私の方から売り込むことはしませんので、「ご依頼いただければ感謝。ご依頼が無くても自分自身の勉強として、この日はしっかり生中継をテレビで見よう」と思っていました。

(2)「もし依頼があった場合、直近の私の課題は?」
依頼に備えて私は上記の問いを頭の中に描きました。就任式自体は2時間弱ではありますが、歴史の重要な一コマであり、世界が注目します。地上波や動画サイトでの生中継ともなれば、多くの方が視聴することになるでしょう。ゆえに通訳ミスが無いようにするために、当日までの私自身の課題は何かを改めて考えました。そして真っ先に思いついたのが「聖書の知識」だったのです。

前回のトランプ大統領就任式(2017年1月)では、聖職者の祈りで聖書の箇所が出てきました。当時の動画を再生したところ、聖書の文言部分はとてもリズミカルに唱えられています。これをテンポよく訳出するのはとても難しいと感じました。キリスト教への深い知識が無ければ、聖書の箇所や人名を即座に訳出するのも困難なのですよね。ちなみに私自身、成育過程の学校において3つのキリスト教を体験しました。イギリスでは英国聖公会、帰国後の高校はプロテスタント、大学はカトリックです。しかし、体系的に聖書を学ばぬまま、今に至っているのです。

聖書に加えてもう一つの課題は、就任式当日までの世界情勢全般の把握でした。11月のトランプ氏勝利後から、氏の発言は注目されています。一方、ウクライナや中東の紛争は継続中。アメリカ国内では移民問題や米西海岸の山火事、トランプ氏自身の口止め料裁判など、多様なニューストピックがありました。就任式前日にはイスラエルの人質がガザから解放され、一方では、アメリカ国内におけるTikTokへのスタンスをトランプ氏が変更するなど、ギリギリまで盛りだくさんでした。

つまり、大統領就任式というのは、宗教知識だけでなく、就任演説に出るであろうトピックにも精通しておく必要があるのです。

(3)やることリストの作成・印刷
今回の就任式に限らず、私は通訳業務を担当するたびに「やることリスト」を印刷しています。すでにPCの中にひな型を保存しているのですね。チェックボックス(□)の横に、準備すべき項目(例:資料入手、関連動画視聴、単語リスト作成)など一つ一つを網羅してあります。予習項目はもちろん、前日に買うべきおやつのリストや、当日の自宅出発時間もここに記入できるようになっています。通訳の準備というのは膨大になりがち。だからこそ、To Do Listを細分化して作成することで、漏れのないようにしています。

演説に頻出する「聖書」の勉強

さあ、いよいよ私にとっての最大課題、「聖書の勉強」が始まりました。ただ、旧約聖書と新約聖書は膨大な教典であり、わずか数週間で読破することはできません。ではどうすれば良いでしょうか?

(1)自分の知識はゼロであることを認める
「知らないこと」は恥ではありません。むしろ「私には聖書の知識は無い」と認めてしまった方が、良い意味で達観してゼロからスタートできます。先に述べたように、私は3つのキリスト教派の下で過ごしましたが、とにかく知らないことが多すぎました。ちなみに私の亡き曾祖母も伯母もクリスチャンであり、私が敬愛する精神科医の神谷美恵子先生や慈善活動家の佐藤初女先生も敬虔な信者でした。身近な存在の方々がキリスト教徒であったにもかかわらず、私の知識はとにかくゼロに等しかったのです。まずはそこを受け入れることから始めました。「無」を認めてしまえば、あとは簡単です。基礎中の基礎から学び始めれば良いのですよね。

(2)本を探す・借りる
かつての私は仕事用の資料を「購入」していました。しかし、近年はすべて「図書館本を借りる」と決めています。これには理由があります。自分で買ってしまうと、つい完読せねばという思いにかられてしまい、時間がかかってしまうからです。でも図書館本であれば、斜め読みへの罪悪感も少なくて済みます。このことに気づいて以来、よほどの文献以外は借りることが私にとってのデフォルトとなりました。

借り方としては、地元図書館や出講先の大学図書館のOPAC(オンライン蔵書目録)で検索します。その際、「キリスト教」「聖書」などと入力し、さらに「子ども向け」「やさしい」「えほん」「ずかん」などの単語も入力。このようにすることで、児童向けの本がヒットしやすくなるのですね。一方、ジャーナリストの池上彰さんや元・外交官の佐藤優さんもキリスト教についてわかりやすく解説しておられます。そうした方々の本も意識的に探しました。

仕事に備えて借りた本の数々。
仕事に備えて借りた本の数々。

一方、スマホ用の聖書アプリも見つかったため、そちらもダウンロード。このアプリは信者が聖書を日々読むためのものであるため、私自身も毎日読み進めるようにしました。キリスト教の概要を知るというよりは、毎日聖書の一節を解読するというスタンス。これも役に立ちました。

(3)書籍との向き合い方
上記の写真のように、一通りの書籍が揃ったら、読書開始です。順番は、「図が多い子ども向けのもの→活字の大きい新書」としました。易しい本で素早く知識を入れれば、その後に難しい本を読んでも理解が早まるからです。ちなみに最初に手に取ったのが「池上彰のよくわかる世界の宗教 キリスト教」(丸善出版、2016年)。これは子ども向けに実によく書かれており、私の中でモヤモヤしていたキリスト教の断片的知識がすっきりしました!続いて新書の「聖書がわかれば世界が見える」(池上彰著、SB新書、2022年)。池上さんの語り掛けるような口調がそのまま伝わってくる本でした。こうして土台の部分をおさえた上で、残りの書籍を斜め読み。「聖書物語」(小出正吾著、あかね書房、1982年)は児童向けではあったのですが、分厚かったため、結局は頁に空気を入れるだけにとどまりました。ただ、それだけでもキーワードは目に入ってきます。大切な作業です。

同時進行でおこなったのが、新約・旧約聖書の各章名を英語・日本語タイトルでリスト化すること。その表が写真右上のA4用紙です。

なお、写真左下の森本あんり著「宗教国家アメリカのふしぎな論理」(NHK出版新書、2017年)も、米国とキリスト教を理解する上で非常に示唆に富む一冊でした。

(4)想定台本を用意
聖書の予習以外に準備したのは、過去の大統領就任式の英文トランスクリプトと和訳。検索したところ、2017年トランプ大統領就任式の英文を発見!こちらをダウンロードし、さらに自動翻訳機にかけて和訳も準備。両方を印刷し、左に英文・右に和文が来るよう糊付けしました。

準備した想定台本をプリント。
準備した想定台本をプリント。

写真の右下が、2017年就任式のいわば「進行台本」、左上は当時のトランプ氏の就任演説です。これらを今回の「想定台本」と見立てることにしました。一方、右上は今回の出席者リストの英文と和訳。左下がエクセルで作成した単語リストです。

いよいよ大統領就任式 当日

本番で工夫したこと
今回の就任式に限らず、「晴れやかな舞台」の通訳業務で私が大切にしていることがあります。それは、「おめでたい雰囲気を声に乗せる」ということです。確かに今回の大統領選は非難合戦も激しく、アメリカ国内は分断しました。世界情勢も決して明るい状況ではありません。しかし、トランプ氏が当選したというのはアメリカ国民の民意の結果でもあるのですよね。よって、明るい式典に合致するような声のトーンやリズムにしたいと考えたのでした。今回の同通はパートナー通訳者と5分交代。宣誓で私はヴァンス副大統領の同通にあたりました。そこで私は判事の声だけを訳し、ヴァンス氏本人の繰り返し部分はオリジナル音声が流れるよう、コンパクトにまとめようと試みました。

(タイムコード 3:59:24あたりから)

本番で苦戦したこと
自分なりにひたすら準備を進め、本番でも色々とこだわりを持って同通を始めたわけですが、やはり苦戦はしました。と言いますのも、式典ではトランプ氏含め、どの登壇者も手元のメモやプロンプターに投影される原稿を読み上げていたからです。私たち通訳者には一切情報が入ってこないため、追いかけるだけで必死でした。

ちなみにトランプ氏の場合、即興演説かプロンプターの原稿朗読かは、氏の話し方・目線で識別できます。今回のトランプ氏の演説を動画で見ると、氏が左側と右側を交互に見てスラスラと語っています。これは左右にプロンプターがあるからです。一方、選挙集会などで見られたトランプ氏の即興演説の場合、氏は演台から正面を見据え、頻繁に両手を広げる動作をします。語る英文もわかりやすい構成です。同時通訳の立場としては、集会や記者会見などでトランプ氏が見せる姿や即興英文の方が、なじみやすいのも事実なのですよね。

(左右のプロンプターを見ながら演説するトランプ氏 タイムコード4:09:18あたりから。演台の左右に透明のプロンプターが設置されているのが見えます)

ところで個人的に苦戦したことでもう一つ。それは「集中力」でした。式典が開始したのが午前1時過ぎでしたので、普段の私であれば睡眠中です。幸いなことに同時通訳を始めるとアドレナリンが上がるため、神経を集中させることはできました。むしろ私にとって、「集中力が切れそうになったこと」が式典開始直後に起きたのです。それは出席者の入場時、モーツアルトのピアノソナタが流れたときでした。頭の中では「あ、この曲、子どものときにピアノのレッスンで習った!」との思いが浮上。「第2楽章以降ってどんなメロディだっけ?」と考え始めてしまったのです。まもなく式典ゆえ雑念はNG。でもふと幼い頃の記憶がよみがえったのでした。

もう一つは、式典半ばで流れた合唱曲「リパブリック賛歌」。

(タイムコード 4:03:20 あたり)

アメリカの代表的な民謡ですが、日本では子ども向けの歌として親しまれています。そう、あの童謡「♪ごんべさんの赤ちゃんが 風邪ひいた」です。式典では海軍学校グリークラブが歌声を披露していましたが、私の頭の中は「♪ごんべさん」と「♪ひとりと ひとりが うでくめば」(「ともだち讃歌」)の歌詞が錯綜。さらに連想ゲームとなってしまい、脳内には「♪新宿西口 駅の前~」と展開していったのでした!

和む瞬間ではありましたが、「次の同通に集中せねば!」と内心思っておりました(笑)。

今後4年間の世界、そして4年後の通訳者―――

就任式通訳を担当して思ったこと。それは今後4年間がどのような世界になっていくのか、ということです。紛争や自然災害、経済の問題など、世界には課題が山積しています。前回のトランプ氏就任式であどけない表情を見せていた息子バロン君は、今回、青年の姿になっていました。月日の流れは早いですよね。そう考えると、今、大いなる進化を遂げているテクノロジー分野が、4年後に現在と同じ勢いを維持しているのかはわかりません。まったく想像もしていなかった新しい業種が誕生しているかもしれないのです。いずれにせよ、確実に誰もが年を重ねていきます。

これまで4年ごとに仰せつかってきた就任式の通訳。4年後も「ヒト通訳者」が担当しているかどうか不明です。今回も一部のメディアではAIによる通訳字幕が使われました。果たして「通訳」という職種自体が生き残っているのか、それとも国会速記者や煙突掃除人のように、「昔あった職業」となっていくのかは、誰も予測できないのです。

ただ、今、目に見えないことをあれこれ不安視しても、かえって委縮してしまいますよね。先が不透明というのは、むしろ「今」を大切にして、「今」できることに集中する最大のチャンスでもあるのです。

このことを常に大切にしながら、これからも放送通訳を続けていきたい。

そのような思いを胸に、テレビ局を後にしたのでした。

大統領選 直近のスケジュール

【2024年 アメリカ大統領選 スケジュール(予定)】
(日付は米国時間)

2024年
6月27日 第1回 大統領候補者テレビ討論会 (CNN)
7月15日~18日  共和党全国大会
8月19日~22日  民主党全国大会
9月10日  第2回 大統領候補者テレビ討論会 (ABC)
10月1日 副大統領候補者討論会(CBS)
11月5日  大統領選投開票

2025年
1月6日  連邦議会の上下両院合同会議で大統領を正式選出
1月20日  次期大統領就任式
3月4日 施政方針演説(予定)


みなさまからのフィードバックも引き続き募集しています。疑問、コメントなど何でも結構です。
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★前回のコラム

放送通訳者 柴原早苗
放送通訳者 柴原早苗Sanae Shibahara

放送通訳・同時通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールドを経て現在はCNNおよび民放局で放送通訳業に携わる。近年では米大統領選、ノーベル賞、エリザベス女王国葬、テニスATPカップ、G7広島サミット記者会見、ノーベル平和賞受賞ユヌス博士、国会議員連盟の通訳などに従事。