第2回 バイデン大統領 選挙戦撤退演説

放送通訳者としてCNNや民放で活躍する柴原早苗さんは、アメリカ大統領選のニュースや就任演説の通訳も多数担当してきました。
「放送通訳者」の視点からとらえたアメリカ大統領選挙の話題や選挙に関わる英語表現などを紹介します。

みなさん、こんにちは!放送通訳者の柴原早苗です。残暑厳しい中、日本では自民党総裁選の話題で持ちきりですよね。一方、アメリカの大統領選挙が佳境を迎えています。投票日まで100日を切り、ここから選挙戦はさらに激しくなっていくのです。

そこで連載の第2回では、バイデン大統領が2024年7月25日(日本時間)におこなった選挙戦撤退演説を振り返ってみましょう。

突然の選挙戦撤退宣言

バイデン大統領は1942年生まれ。29歳の時に民主党の上院議員に当選しました。新米議員の頃に自動車事故で妻と娘を亡くし、同乗していた幼い息子二人は無事生き延びています。シングルファーザーとして地元デラウェアと首都ワシントンを列車通勤しながら職務に携わった苦労人でもあるのです。2009年、オバマ政権の副大統領に就任し、2期8年間を務めました。2011年には東日本大震災の被災地を訪問しています。

2016年には共和党のトランプ政権が誕生。これに危機感を抱いたバイデン氏は2020年の大統領選に立候補します。世界がコロナ禍に見舞われる異例の最中の選挙戦を勝ち抜き、ハリス氏を副大統領に選び、バイデン政権が誕生したのです。

4年に一回おこなわれるアメリカ大統領選挙。当初もバイデン氏が2期目を狙うと思われていました。しかし、6月末におこなわれたトランプ候補との大統領選討論会は大惨事に終わります。民主党内からも交代論が浮上したのです。バイデン氏はそうした声をはねのけて続投に意欲を示していましたが、民主党の勝ち目がますます無くなり、選挙戦撤退宣言をしたのでした。当日私がTBSで通訳をおこなった動画はこちらです


バイデン大統領演説 選挙戦「撤退」を説明 「タフで有能」カマラ・ハリス氏支持を表明(2024年7月25日)(TBS NEWS DIG Powered by JNN)
※柴原さんの通訳は前半

準備のときに演説内容を予想しておく

今回の撤退演説で、私は主に以下に重点を置いて準備をしました

(1)バイデン大統領の話し方に慣れておく
正直なところ、バイデン氏が年齢を重ねるにつれて、話し方(発声法)に私自身、聞きづらさを覚えていました。人間は誰もが老いに向かう以上、話し方に変化が生じるのは仕方ないことです。しかし、同時通訳者として「聴きづらいから訳せない」はありえません。
そこで、事前に動画サイトにあがっているバイデン氏の最近の映像を視聴しました。間(ま)の取り方、言葉遣い、身振り手振り、顔の表情などを事前に予習することで、当日に備えたのです。

(2)演説内容を予想しておく
撤退を表明すれば、誰を次期大統領候補にするかが大いに注目されます。順番から考えてバイデン氏がハリス副大統領を選ぶのは明らかでした。そこで、「ハリス氏のどのような部分をバイデン氏は評価しているのか」といったことを始め、ハリス氏の生い立ち、業績も調べました。

(3)キーワードを考えておく
演説内容を予想した後、出てきそうなキーワードを考えました。色々なニュースサイトなどを読むと、「次世代」(next generation)ということばが浮かび上がりました。となると、これは日本語でいうところの「次世代にバトンを渡す」という状況になります。他にも「民主主義」「自由」「正義」ということばは必ず出るであろうと考えました。

意訳と直訳、どっちがいいのか?

そしていよいよ本番。今回私が同時通訳のさなかにとりわけこだわったのは以下の部分でした


(03:03あたり)

“I’ve decided the best way forward is to pass the torch to a new generation.”

私はこの部分を、
「よって最善策というものがあります。これは、次世代にバトンを渡すことです。」
と訳しました。

torchは辞書を引くと「たいまつ、トーチ」と出てきます。よって、文字通り訳せば「たいまつを渡す」「トーチを渡す」となります。しかし、私の中では「バトンを渡す」が一番しっくりくると思ったのですね。原文でpass the batonとは言っていませんでしたが、これは日本語としてわかりやすい「バトンを渡す」にしようと同時通訳の真只中に考えたのでした。

同時通訳の世界では「絶対的正解」というものがありません。意訳にするか直訳にするかも、TPOに応じていくことになるのです。通訳者自身の「ことばへのこだわり」や「同時通訳の瞬間に浮かび上がったことば」が訳出を左右することもあります。大事なのは、「話者がイイタイコト」を「いかに目的言語にわかりやすくするか」なのです。

この「意訳か? 直訳か?」の心境を的確に、かつユーモアを交えて綴られたのがロシア語通訳者の故・米原万里さんです。1997年に発行さた『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(新潮社)は大ベストセラーとなりました。出版から30年ほど経た今読んでも、実に楽しめます。通訳業界に関心をお持ちのみなさまに、ぜひ読んで頂きたい一冊です。

アメリカ大統領選 直近のスケジュール

バイデン氏撤退表明から大いに流れが変わったアメリカ大統領選挙。次の直近イベントは9月11日(日本時間)のトランプ・ハリス両氏による大統領候補者討論会です。どのような政策論争となるのか、はたまた個人攻撃の非難応酬になるのかはわかりません。とにかくますます目が離せないアメリカ大統領選挙と言えるでしょう。

【2024年 アメリカ大統領選 スケジュール(予定)】
(日付は米国時間)

2024年
6月27日 第1回 大統領候補者テレビ討論会 (CNN)
7月15日~18日  共和党全国大会
8月19日~22日  民主党全国大会
9月10日  第2回 大統領候補者テレビ討論会 (ABC)
10月1日 副大統領候補者討論会(CBS)
11月5日  大統領選投開票

2025年
1月6日  連邦議会の上下両院合同会議で大統領を正式選出
1月20日  次期大統領就任式


今回はバイデン大統領の選挙戦撤退演説に焦点をあててみました。次回は8月中旬におこなわれた民主党全国大会に関する話題をお届けし、トランプVSハリス大統領候補者討論会についても追って執筆予定です。

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★前回のコラム

放送通訳者 柴原早苗
放送通訳者 柴原早苗Sanae Shibahara

放送通訳・同時通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールドを経て現在はCNNおよび民放局で放送通訳業に携わる。近年では米大統領選、ノーベル賞、エリザベス女王国葬、テニスATPカップ、G7広島サミット記者会見、ノーベル平和賞受賞ユヌス博士、国会議員連盟の通訳などに従事。