会議通訳者、兼、スポーツ通訳者として活躍されている、平井美樹さんによる連載コラム!
日本スケート連盟の通訳者として数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務めるほか、五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わる平井さんが、フィギュアをはじめとするスポーツの通訳の仕事について語ります。
(※隔月更新予定)
ネイサン・チェン選手の
自伝出版記念イベントでの通訳&司会を担当
オリンピックは4年に1回。冬季五輪の花形競技のフィギュアスケートはたくさんのドラマが生まれる場であり、感動的場面や歴史的な出来事が多いのですが、残念ながら私は一度も五輪での記者会見の通訳はしたことがありません。
記者会見の同時通訳は受注している通訳会社、ミックスゾーンではボランティア通訳者などが通訳を担当し、まさに通訳者の祭典でもあります。しかし、競技団体の普段使っている人を入れることも難しく、大抵は組織委員会が決定します。一度、ソチ五輪の前に行われたグランプリファイナルで五輪通訳チームのトップの方から、ソチ五輪での通訳者チーム入りを打診されましたが、結局実現しませんでした。五輪関連の放送ではスタンバイをしていて、本番がないまま終わったこともあります。
今年(2023年)の夏、北京冬季オリンピック金メダリストのネイサン・チェン選手が来日し、自伝の出版記念イベントでの通訳と司会をご依頼いただきました。喜んでお引き受けしたものの、その瞬間からこれは大変だぞと身の引き締まる思いでいました。というのも、パトリック・チャン選手と並び、ネイサンは私たち通訳者にとっては大変難しいスピーカーです。とにかく早口! ほかの業界でもアジア系アメリカ人やカナダ人には早口さんが多いのです。ただ早口だけならまだなんとか対策を講じられるのですが、早いうえに内容に無駄がない。この情報密度についていけるかが不安でした。皆様とにかく頭の回転が速いのです。
不安を払拭するためには準備と練習のみ。早速英語版と日本語版の自伝を入手し、読破する作業が始まります。今回は日本のファンの皆様に向けて彼の言葉を届けるというミッションです。
日本語版を読み始めて、英語版より読みやすいと感じました。翻訳者3名の力作が素晴らしいのです。彼の気持ちや考えがストレートに伝わってくる翻訳でした。語彙選択、文章の流れがとても心地よく、すっと入ってきます。通常、国際関係など固いテーマの著者の講演を通訳する際は原文の方が読みやすく、日本語は訳語を統一するために使うことが多いのですが、うれしい形で予想が裏切られました。ネイサンが日本語をお話になられたらこんな感じだろうなとイメージが湧きました。そのイメージはしっかり拝借させていただくことになりました。
そこでまた新たに不安に苛まれました。翻訳者の方々が当日会場にいらっしゃるのです。翻訳者の前で粗末な訳を出してしまうと彼女たちの作品を汚してしまうという恐怖を感じました。そしてコアなネイサンファンの皆様、10秒で完売したプラチナチケットをゲットなさった方々に向けて私がネイサンを理解しきれず、変な訳を出してしまったら。どんどん不安が膨らんでいきます。
これは通訳者が常に感じることだと思います。どんなお仕事でも、その場では通訳者が一番の素人ですので、本番前の不安との闘いは毎日あります。しかし今回はオリンピックチャンピオンのめったにない生の言葉。それこそ、言霊を感じ取っていただくために私がいるのです。と、こんな感じでどんどんプレッシャーばかり大きくなります。さらに、彼の怪我の詳細や人生に関わった方々のお名前などの単語帳を用意しながら、「本番で出せなかったらどうしよう?」と自分でプレッシャーをかけてしまいます。股関節まわりの筋肉の名前など、すっと出せそうにない上に噛みそうな言葉もありました(幸い本番では出ませんでしたが)。
今回は司会者も仰せつかっておりましたので、これもまたプレッシャーです。通訳脳と違う神経を使うので切り替えが重要になります。実際、本番ではご用意いただいた台本からずれたり、すべての質問を網羅できなかったという反省点もありました。
プレッシャーに潰されそうになってもおかしくないのに、そんな自分を鼓舞するかのような内容を読み進めていくうちに、このお仕事をやらせていただけることのありがたさが優位になり、不安がなくなりはしないものの、制御できるようになっていました。ネイサンの平昌オリンピックでのプレッシャーからの失敗、北京への準備やメンタルトレーニング、選手そして人間としての成長の過程を読みながら、比べものにはなりませんが、自分のキャリアに重ね、多く学び取ることができました。
金メダリストから受け取った
言葉の贈りもの
そして迎えた当日。ネイサンに打ち合わせでこんな質問がファンから届いていますと説明し、本についてはこんなことを伺いますと確認します。100冊以上の本をサインしながらの打ち合わせで、彼の脳みそはどうなっているのだろう? と思いました。思慮深いとはこういうことなのかなと思います。一つひとつの質問に自分でどう答えていこうか考えを整理しているのだと見受けられました。
本番の冒頭、ネイサンはパトリックと並んで通訳者のブラックリストにランクインしているとお伝えしました。苦笑しながらも、容赦なくネイサン調の「早口濃密弾丸トーク」が始まります。
正直、メモはほぼ取れない、読めない状況でした。彼の頭の中を初めて覗いているにも関わらず、事前準備のおかげで思考の流れと深さ、訴求ポイントがすっと入ってきました。早口にパニックを起こさず、彼自身の言葉に耳を傾けると、何が言いたいかがわかってくるという心地よさがありました。もちろん常に恐怖とは戦いながらでしたが、「これを伝えたい!」という気持ちから訳出をしていきました。
一通り訳が終わると、さあ大変です。今度は司会の進行。どの質問を取り上げるかの葛藤です。これは通訳者とは違う仕事です。質問を選ぶ際の基準は、本を読めばわかることは割愛するという一点だけ。つまり本に書いてある以上の情報を引き出せないことは聞かない。自伝に書ききれなかったところを深堀りし、ファンの皆様からの貴重な質問をひとつでも多く入れたいという気持ちでした。
イベントの最後には通訳者(司会者)特権として質問をさせていただきました。これは今回のお仕事で得たオリンピックチャンピオンからの贈り物を多くの方に届けたいという私の願いでした。自伝には、挫折から這い上がっての金メダルを手にした彼が感謝の気持ちを大切にすることを羽生選手の姿を見て感じたと書いてありました。がむしゃらに五輪をめざしていた自分から、この場にいられることへの感謝の気持ちが先立つようになったという心境の変化について読んだとき、私も同じように感謝の気持ちの重要性を思い出すことができました。プレッシャーも含めてこのような場をいただいたことへの感謝と喜びを皆様とも分かち合いたいと思っての質問でした。
また、アジア系アメリカ人としての成功にも関連しています。日本の社会における息苦しさみたいなものをだれもが感じているときに、今日のお話を伺って少しでもみんなが楽になれることが聞けたらなと、楽屋で独り言のように呟いてネイサンにそれとなく伝えていました。「アジア系アメリカ人。日本社会、女性は特に大変。毎日しんどいときに何か元気の源になるお土産がほしいな」こんな断片的なキーワードだけでしたが、ネイサンはすぐにこちらの意図を理解してくださっていました。本番では、「皆さんが人生でいろいろなアップダウンを経験するけれど、何かアドバイスはありますか?」という質問に対して、このような答えをいただきました。
【平井さんの訳を紹介!】
ネイサン・チェン選手の言葉&日本語訳
ネイサン・チェン選手による質問への回答:
Yeah, I think something that helped me a lot.. starting to work with Eric(メンタルコーチ), something that he told me to do is.. and this was applicable to just skating at the time but applicable to life in general.. but you tell me before I go to bed think about the best thing that happened to me that day on the ice. So..For instance if I was training you know like a quad flip or something. And if I was able to land one that felt really good. Go back and visualize that for like you know, 30, 30 seconds to 2 minutes just over and over… What was that? What did it feel like? What did it smell like? What did the you know…what did the clothes feel like on me? All these little details about that jump and why it made me feel good but I think now going back on that I think it is a really good advice honestly from a life perspective… to think back on your day, to go back on your day. I think it is really easy for people to think oh what were the things that didn’t go well, what were the things I could do better, what were the things that made me feel upset or unhappy and then we start thinking that and it makes us more and more unhappy. Whereas in his view was look back on the thing that made me the happiest and it could be somethings really small like you know, “I made someone smile today” or like “I made a new friend today ” or something like that. And just imagine what did that feel like and why did that make me happy and think about that right before you go to sleep and then usually you go to sleep much happier and that’s something that has been very helpful for me.
平井さんの日本語訳:
とても役に立ったのは、エリックの指導を受けるようになってからなのですが、当時はスケートに限定していたのですが、人生にも当てはまるアドバイスです。寝る前に、その日氷上で一番良かったことを思い起こしてみようと言われました。例えば4回転フリップの練習をしていて、とても気持ち良い着地をしたジャンプがあったとします。それを30秒から2分、頭の中何度も再現するのです。どんな感じだった? どんな匂いがしていた? その時着ていた服がどんな感触だった? というふうに細かいところまでそのジャンプとなぜそれが気持ちよかったのかを思い浮かべます。これは今思うと人生という観点からもとても良いアドバイスだと思います。自分のその日、1日を振り返ってみるのです。そうすると、誰もが、ああ、ひどかったなとか、もっとこうすればよかったのにとか、本当に悔しかったり悲しかったなと嫌なことばかり思い出して、そのことばかり考えてしまい、どんどん不幸になってしまいます。エリックさんの指導では一番嬉しかった、楽しかったことを思い起こすのです。小さいことでも良いのです。例えば、「今日誰かを笑顔にした」とか「新しい友達ができた」といったこと。そして想像してみるのです。どんな気持ちだったか? なぜ自分が幸せに感じたのか?それを寝る直前に考えることによって、もっとハッピーな状態で寝られるのです。これが私にとっては大いに役立ちました。
1分13秒の間にこれだけお話になっていて、書き起こしも大変でした!
私などでは想像もできない苦難を乗り越えて、努力に努力を重ねて、不安とも闘ってきた金メダリストからのこの言葉が会場にいらしていた皆様にとって最高のお土産になったと思います。個人的にもとても大切な贈り物となりました。
以前、通訳学校で教えていたとき、勉強が辛いとおっしゃっている生徒さんによく言っていたことを思い出しもしました。「辛いと思うとどんどん辛くなるので、楽しいと思えるように工夫するところからやってみては? 何か一つできれば次にまた頑張ればもっとできるかも?」
だれにも当てはまることですね。毎日笑顔で寝付けるように、今日も金メダリストの教えを実践しております。
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会議通訳者兼スポーツ通訳者、 日本スケート連盟通訳者。学生時代にESPN Sports Centerを翻訳するアルバイトから通訳の道に入る。NHKの大リーグ、NBA、NFL放送の通訳スタッフ、広告代理店の社内通訳を経て、現在はニュース、国際関係、安全保障、企業買収からエンタメ、相撲の英語放送までをこなす放送・会議通訳者。五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わるほか、日本スケート連盟の通訳者でもあり、数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務める。日本から海外へのPR、エグゼキュティブ向けグローバルコミュニケーションコンサルタント、企業からアスリートまでのメディアトレーニングも手がける。