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2023.05.29 UP

社会情勢と言葉の変化
―ニュース翻訳の現場から

社会情勢と言葉の変化<br>―ニュース翻訳の現場から
※通訳・翻訳ジャーナル2021年春号「通訳者・翻訳者が知っておきたいことばの新常識」より転載

政治的・社会的に正しいとされる言葉は時流に即して更新されるもの。近年のメディアにおける人種や宗教に関する言葉の変化と、辞書に載っていない新語やスラングの調べ方について、長年にわたり英語圏のニュースの翻訳を手がける松丸さとみさんに教えていただきます。
(※こちらの記事の内容は2021年2月時点のものです)

メディアで使われる言葉は常に変化する

「言葉は生もの」とよく言われるように、常に変化をしています。インターネットやソーシャルメディア(SNS)のある生活が当たり前になった今、そのスピードは加速していると言えそうです。

とりわけ2016年には、イギリスの欧州連合(EU)からの離脱採択や、アメリカでのドナルド・トランプ氏の大統領当選など、世界史に刻まれるような大きな変化があり、新たな言葉や意味が生まれるきっかけとなりました。

また2020年、アメリカから世界へと拡大した「Black Lives Matter」(BLM)運動も、日常的な言葉に大きな変化をもたらしました。

人種差別問題と言葉

■BLM運動の影響
2020年のBLM運動のきっかけは、5月にミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさんが、白人警察官に身柄を拘束された際に死亡した事件でした。これまでも、古くは1967年のデトロイト暴動や1992年のロサンゼルス暴動など、黒人が白人警官に差別的な扱いを受けて命を落とすなどし、暴動に発展した事件は何度も繰り返されてきました。

20年のジョージ・フロイドさん死亡事件がこれまでの抗議活動や暴動と大きく異なった点は、全米のみならず世界各地へと発展したことでした。さらには、奴隷制度を肯定的にとらえていた人物の像が引き倒されたり、そうした人の名前が付けられた建物の名称が変更されたりといった活動へと広がった点もあります。

同様に、奴隷制度を彷彿とさせる言葉を意図的に避けたり言い換えたりという流れも出てきています。一例として、プログラミング用語の「マスター」(master、奴隷の所有者)「スレーブ」(slave、奴隷)をそれぞれ「メイン(main)」「レプリカ(replica)」などの言葉に置き換える動きが加速しています。このように、20年のBLM運動をきっかけに、言語の面でもさまざまな変化が起きました。

photo by Travel Sourced (Pixabay)

■人種を示す言葉の変化

なかでも大きかったのは、アメリカの黒人を「アフリカ系アメリカ人」(African American)と表現することが政治的に正しいとされていたことが、変わったことでしょう。

「African American」と「Black」は必ずしも同義ではありませんが、人種的にアフリカにルーツを持つアメリカ人をどう表現するかは、アメリカで長年にわたり議論されてきました。「African American」と呼ばれる理由は、かつて黒人といえば、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられた人たちの直系子孫だったという歴史的背景があります。とはいえ21世紀の今、カリブ諸国やヨーロッパなどから移民としてやってきた人たちは、「アフリカ系」と呼ばれることに違和感を覚えることも少なくないと言われています。

20年のBLM運動を受けて、より政治的に正しい表現は何かを見直した報道機関が多かったようです。ニューヨーク・タイムズは20年7月20日付の記事で、アフリカ大陸にルーツを持つ人であっても、自分をアフリカ系だと考えているとは限らないとして、「African American」よりも「Black」とするほうが適切であると書いています。

またアメリカ最大の発行部数を誇るUSAトゥデイや、大手通信社のAP通信、そしてCNNやニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなどといった大手報道機関はこぞって、人種や文化を意味する際には「black」ではなく、大文字で始める「Black」とすることを編集方針として打ち出しました。「Native American」や「Asian」「Latino」など大文字で始まっている他の人種と同じ扱いにするためです。

Bが小文字から大文字になったところで、日本語では同じ「黒人」になってしまうのが翻訳において悩ましいところです。しかし「African American」よりも「Black」のほうが政治的に正しい言い方だとされていることを無視するわけにはいきません。

例えばもし原文に「Black」とあった場合、著者が「African American」と書くことを意図的に避けた可能性が高いため、日本語にする際に、より丁寧な表現だと勘違いして「アフリカ系アメリカ人」などとしてしまわないよう注意することが大切です。

同じく人種の話題で、アジア人を表現する言葉でも変化が見られています。2016年に、当時のバラク・オバマ米大統領は「Negro」「Oriental」「Eskimo」などの言葉を差別的として、連邦法から削除する決定をしました。

イギリス英語では、「Oriental」は東アジアや東南アジアなどを指す際に使われる表現で、差別的なニュアンスは基本的にはありません(イギリス英語で「Asia」というと一般的にインドやパキスタンを指します)。そのため、イギリス英語に慣れている人はつい使ってしまう可能性がありますが、アメリカでは差別的とされているため注意が必要です。また近年は、イギリス英語でも「Oriental」という言い方は少し古く響き、「East Asian」などと具体的に表現するほうが好まれるようです。

※ 通訳・翻訳ジャーナル2021年春号「通訳者・翻訳者が知っておきたいことばの新常識」より転載

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翻訳者 松丸さとみ
翻訳者 松丸さとみSatomi Matsumaru

フリーランス翻訳者・ライター。学生や日系企業駐在員としてイギリスで計6年強を過ごす。現在は、フリーランスにて時事ネタを中心に翻訳・ライティング( ときどき通訳)を行っている。著書に『映画で学ぶネイティブっぽいおしゃれ英語表現』(アルク)、『英語で読む錦織圭』(IBC パブリッシング)、訳書に『限界を乗り超える最強の心身』(CCCメディアハウス)、『FULL POWER 科学が証明した自分を変える最強戦略』(サンマーク出版)などがある。