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2024.12.24 UP

海外マンガ書評『DUCKS(ダックス)―― 仕事って何? お金? やりがい?』(評者:森田系太郎さん)

海外マンガ書評『DUCKS(ダックス)―― 仕事って何? お金? やりがい?』(評者:森田系太郎さん)

全米で注目される、極めて文学的で社会学的なマンガ

『DUCKS(ダックス)——仕事って何?お金?やりがい?』

『DUCKS(ダックス) ――仕事って何? お金? やりがい?』
ケイト・ビートン 著
椎名ゆかり 訳 インターブックス
(2024年10月24日発売)
出版社HP  Amazon

Book Review:森田系太郎さん(通翻訳者・大学院講師)

バラク・オバマ元米大統領が2022年のお気に入りの本の1冊として〈マンガ〉を選出していた、と聞いたら皆さんは驚くだろうか。しかしマンガは、特に今世紀に入ってからは文学の一(いち)ジャンルとしても扱われるようになっており、マンガが過小評価された時代はすでに終焉を迎えている。

そのオバマ氏が選出したマンガが今回ご紹介する『DUCKS(ダックス)——仕事って何?お金?やりがい?』である。書名の『DUCKS』は直訳すると「カモたち」。このタイトルは、マンガの主人公であり作者自身でもあるケイト・ビートンが、働いていたオイルサンド(粘度の高い原油を含む砂岩層)採掘地で廃棄物が排出される尾鉱池に飛来し、その結果、大量死した数百羽の渡りカモに由来する。

本書の帯にあるように、ケイト・ビートンは北米のマンガ業界において「21世紀で最も成功した女性マンガ家のひとり」であり、本書は「自伝的グラフィックノベル」、つまり作者自身の体験を描き出したマンガである。2005年に大学を卒業した主人公のケイティ(ケイトの愛称)は、21歳のとき、学生ローンを返すためにカナダ・アルバータ州北部のオイルサンドで働き始める。勤務は2008年まで2年間、断続的に続いた。本書はその時の——苛酷と言ってよい——体験記である。

苛酷な体験は、上述したようにカモが大量死してしまい、人間の身体にも影響を与えるような環境問題だけではない。ケイティの働く職場ではセクハラは日常茶飯事。そして遂にはレイプ事件にまで発展してしまう。作者はあとがきで「[レイプ犯である]彼は私の人生にとって巨大なトラウマなのです」(436頁)と告白している。しかし大学で文化人類学を専攻していた作者は、冷静な目で人類学的考察を付け加えることを忘れない。「[オイルサンドのような肉体労働が多くを占める職場の労働者は]50対1の比率で男性の数が女性を上回っていると、性差に基づく暴力が起こります。当然そうなります。もちろんこれは、男性が長期間にわたって家族やさまざまな関係性やコミュニティから離れて孤立し……た時に起こります」(436頁)。訳者あとがきにあるように、この「経済的苦境ゆえにそこから抜け出すことができずに、体と心が徐々にむしばまれていく労働者たちの姿」(442頁)は、毒の池から抜け出せずに命を失った本書タイトルの「DUCKS(カモたち)」の姿と重なる。

本書に推薦コメントを寄せた作家のブレイディみかこは「どんな社会学の本を読むより、このコミックを読んだほうがわかることがある」(https://books.interbooks.co.jp/sp/ducks/)と喝破しているが、確かにこのマンガは第一級のエスノグラフィーと言っても過言ではない。エスノグラフィーとは社会学や文化人類学で用いられる調査手法で、対象となる場に身を置いて人々と行動を共にしながらその場を観察し記述する手法のこと。オイルサンドという場に身を置いて同僚と行動を共にしながら現場を観察し、マンガを通じてその様子——環境問題、性と暴力、貧富の格差、孤立と孤独、そして先住民の問題まで——を伝えるのはまさにエスノグラフィーである。

本書の訳者は海外マンガ翻訳者の椎名ゆかり。全体的に読みやすい翻訳になっているが、直訳調の訳も一部観られた。例えば、ケイティはいくつかのオイルサンドで勤務しているが、シェル社アルビアン・サンズ時代の同僚ハティムは、倉庫事務として働くケイティと、同じく倉庫事務のエミリーと車中で交わした会話の中でこう言う。「俺の知っている女たちは[働かずに]みんな家にいたほうがずっと幸せそうだからな。」「フェミニストは頭のおかしい尻軽な女たちだ! 自分が何を話しているか全然わかっちゃいない!」(289頁)、と。ハティムの偏った主張にケイティは「エミリー、病院に連れて行って。」「もう死んじゃいそう。」(290頁)と白目を剝いて頭を抱えながら話す。それに対してエミリーは「あいつは別の考えの持ち主なんだよ。」(290頁)と答える。

最後のエミリーの発言を原著で確認してみると“He has some different ideas.”となっており、例えば「あいつとは考え方が合わないんだよ。」という訳の方が日本語としては自然に聞こえるかも知れない。ただし、翻訳の戦略として、原文の“味と匂い”を消さない直訳調の翻訳を選択する方法(翻訳研究では「異質化foreignization」と言う)もあり、椎名は敢えてこの戦略を採用したのかも知れない。

定価は税抜きで2,800円。“マンガにしては”やや高額と思う方がいるかも知れない。しかし本書は、マンガ界のアカデミー賞と言われる「アイズナー賞」では2023年に2部門(BEST MEMOIR部門、BEST WRITER/ARTIST部門)で受賞し、『ニューヨークタイムズ』では2022年の注目の100冊に選出。また『タイム』誌でも2022年のベストブックに選ばれているだけあり、読後は価格以上の価値を感じられる作品に仕上がっている。

読者の心に手触りのある重みを残す、極めて文学的であり、社会学的なマンガである。

★森田系太郎さんの連載『グローバルビジネス現場の英語表現』はこちら

森田系太郎
森田系太郎Keitaro Morita

日米の大塚製薬を経て、現在は製薬CRO・シミック㈱のシニア通訳者 兼 フリーランス通翻訳者。日本会議通訳者協会(JACI)・認定通訳者。立教大学(社会デザイン学 [博士])、モントレー国際大学院(翻訳通訳 [修士])卒。国連英検・特A級(外務大臣賞)、英検1級、全国通訳案内士。JACIのHPでコラム「製薬業界の通訳」を、『通訳翻訳ジャーナル』(2022-23年)でコラム「専門分野の通訳に挑戦【製薬編】」を連載。編著書に『環境人文学 I/II』(勉誠出版)、『ジェンダー研究と社会デザインの現在』(三恵社)がある。 立教大学・兼任講師/研究員、社会デザイン学会・理事、文学・環境学会 役員(広報)。趣味は小6から続けているテニス。