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2023.07.03 UP

「ハリー・ポッター」シリーズ翻訳者
松岡ハリス佑子さん Special Report&Interview Vol.2

「ハリー・ポッター」シリーズ翻訳者<br>松岡ハリス佑子さん Special Report&Interview Vol.2
※『通訳翻訳ジャーナル』2019年秋号より転載

【これから】
私にできるのは
紙の本を出し続けること

2019年の『ハリー・ポッターと賢者の石』日本語版20周年を記念し、表紙や各章の扉イラストをリニューアルした新装版全7巻が刊行決定。12月に1巻から3巻を発売予定で、今も原稿の読み直しを進めている。

「これまでも文庫版を出すたびに読み直してきましたが、その度に『こんなふうに訳したのか』と発見があったり、『こうしたほうが読みやすいんじゃないか』と新たなイメージが湧いたりするので、とてもおもしろいですね。ただ、言葉の第一印象は大事にしなければいけませんし、改悪になってもいけませんから、手を入れるにしても、もとの言葉をなるべく崩さないようにしています」

本シリーズを発売と同時にリアルタイムで読んだ子どもたちを第1世代とすれば、そのあとに1・5世代、第2世代と続き、いまや第1世代を親に持つ子どもたちが魔法ワールドの物語に夢中になっている。この20年でハリポタは読者を増やし続け、児童書の「新たな古典」になった。

一方で出版市場全体を見渡せば、「年々、冷え込んでいる」というのが実感。加えて、業界全体が電子書籍やネット配信といったデジタル化の波にさらされ、先行きは不透明だ。

それでも、出版社のトップとしてやるべきことはしっかり見えている。
「私にできるのは、紙の本を、いい作品を出版し続けることだけ。そこに迷いはありません。もちろん、インターネットやデジタル関係のものを無視するということではなく、十分に利用しなければと思っています。だけどやっぱり、ページをめくって紙の感触やインクの匂いを楽しむような、そういう読書の仕方を子どもたちに伝えていきたいんです。少なくとも、私が生きている間は」

「ハリー・ポッター」は自分一人の判断で翻訳・出版を決定できたが、現在はそうはいかない。経営者として「商業的な成功が見込めず、採算が取れないと出版は難しい」というシビアな現実もある。

翻訳家としては、大好きな『若草物語』を自分の手で新訳するという積年の願望がある。永遠の名作ならば、古い翻訳のままでいいのではないか―― そう思ったりもするが、そんな葛藤を抱えながら自分の言葉で訳すという難題に、どうしようもなく惹かれてしまう。

ただし、それが〝書き手〞としてのゴールだとは思っていない。
「最終的には、自分で書くという仕事がおもしろくなるかもしれませんね。エッセイのようなものを出されている翻訳者の方はいますけれど、私はフィクションかもしれない。まあ、ずっと高齢になってからの話でしょう(笑)」

【翻訳家志望者へ】
楽しいから翻訳をしたいのか
食べるために翻訳をするのか

松岡さんが翻訳家になった経緯は、講演会レポートでふれたとおり。ご自身も「私みたいな例は例外中の例外」と認めており、翻訳家をめざす人にとってのモデルケースにはなりにくい。
だが、出版社を率いるものとして翻訳者を選び、さまざまな翻訳原稿に目を通してきた経験から、志望者にアドバイスできることがある。

「企画や試訳を持ち込んでも、最初はまず断られると思ったほうがいいでしょう。J・K・ローリングでさえ、ハリー・ポッターの原稿を買ってもらうまでに何社にも断られました。残念なことに、プロでない方の翻訳には、どうしても至らない部分が残ってしまいます。やはり、最初は誰か先生につくなり翻訳学校に通うなりして、下訳をするとかコネをつくるとか、そういったステップを踏むことが必要だと思います」

本が売れない状況が長く続き、実務翻訳の世界ではAI(人工知能)による機械翻訳の導入も進んでいる。出版翻訳という仕事の先行きは不透明だが、「翻訳という作業そのものは、これからもなくならない」と考えている。
「ただ、翻訳で食べていけるかどうかというのは、また別な話です。生計を立てるために翻訳をしたいのか、それとも純粋におもしろいから翻訳がしたいのか。この二つをよく考えたうえで、進む道を決めるべきだろうと思います」

出版翻訳という仕事に憧れ、翻訳家をめざしている人は今も少なくない。そのことについて「いい目標をお持ちだと思います」と松岡さん。自身の経験から発せられた、偽らざる思いだ。

「言葉を追いかけるというのは、とても楽しいことです。翻訳だけでなく通訳もそうだけれど、仕事としてはとても厳しいですよ。だけど、おもしろくて、やりがいがあって、やる価値があります。だから、もし本当に好きでプロになりたいのであれば、どんどんおやりなさいと言いたいですね。食べていけるかどうかを考えるより、まず挑戦してみることが大切だと思います」

松岡ハリス佑子さん
松岡ハリス佑子さんYuko Matsuoka Harris

翻訳家。株式会社静山社代表取締役社長。国際基督教大学(ICU)教養学部社会学科卒。モントレー国際大学院大学国際政治学修士。ICU卒業後、海外技術者研修協会(現・海外産業人材育成協会)で7年間、常勤通訳を務めた後、フリーランスの通訳者に。1998年に静山社社長に就任し、「ハリー・ポッター」シリーズ(全7巻)の翻訳を手がける。そのほかの訳書に、「少年冒険家トム」シリーズ、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 映画オリジナル脚本版』(以上、静山社刊)など。

新装版「ハリー・ポッター」シリーズ(全7巻・11冊)


J.K.ローリング著/松岡佑子訳/佐竹美保画/静山社

大ベストセラーが新装版になって発売中!
児童書の装丁画を多く手がける佐竹美保氏が表紙と各章扉のイラストを書き下ろしている。
詳細は静山社HPへ。

→Vol.1 「ハリー・ポッター 二十年目の贈りもの」講演会レポートはこちら!

※ 『通訳翻訳ジャーナル』2019年秋号より転載 取材/金田修宏 写真/合田昌史 取材協力/静山社、NHK文化センター