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2023.11.16 UP

第4回 アイスダンス選手の「大人」な記者会見

第4回 アイスダンス選手の「大人」な記者会見

会議通訳者、兼、スポーツ通訳者として活躍されている、平井美樹さんによる連載コラム!
日本スケート連盟の通訳者として数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務めるほか、五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わる平井さんが、フィギュアをはじめとするスポーツの通訳の仕事について語ります。
(※隔月更新予定)

世界フィギュア選手権2023 アイスダンス部門での出来事

さまざまな発言が飛び出す記者会見の通訳

スポーツの通訳をしていると、選手のコンディション、パフォーマンス、メンタルなどについて訳すことが多いのですが、たまに変化球があります。選手や監督の哲学的な話もそうですし、フィギュアでは音楽や映画、衣装に絡めてファッションなど、自分の教養が色々と試されます。

いまだに自分でも笑ってしまう誤訳の一つが、ジェイソン・ブラウン選手とライターの長谷川仁美さんのトークショー(コロナ下のオンラインイベント)で、次のシーズンに使うと思われる曲をジェイソンが発表してくださったときのことです。打ち合わせに無かった内容のため、曲名の“Sinner Man”「シナモン」に聞こえて、音から訳すことになってしまいました。
「シナモン??? うーん」と思いながら訳出して、あとでファンの方に曲名がSinner Manだとご指摘いただきました。顔から火がでるような、苦い思い出です。

フィギュアの国際大会の記者会見でも、上記の芸術的なことに加え、政治や社会問題などのトピックスに関する思わぬ質問や発言が出て、ドキッとすることがあります。今回はそういったエピソードについてご紹介します。

ちなみに余談ですが、私の知るかぎり、あらゆる競技の国際大会における記者会見の公用語は英語です。つまり、英語が話せない選手や監督などには通訳をつけて英語に訳しますが、それ以外の言語への訳出はしません(例:英→日の通訳はしない)。
フィギュアスケートに関しては関心度が高いこともあり、日本で開催される国際大会には私を含め、英語、中国語、ロシア語、韓国語などの通訳者を、必要に応じて日本スケート連盟が手配してくださいます。ですから多様な国の選手の言葉が日本語に訳される記者会見は、実は日本の特例なのです。これも、競技を大切にしてくださる皆様があってのことだなとつくづく思います。

アスリートのメディアトレーニングとは

私が本業の放送や会議通訳者の延長線で最近お仕事にしているのが、企業のトップや国のリーダーたちの英語コミュニケーションのアドバイザリー業務です。長年の通訳経験と、広告代理店や広報分野で働いたこともあるバックグラウンドを活かせる場でもあります。
「英語で伝わる効果的なコミュニケーション」は、「英語が話せる」のとはまた違うスキルが必要です。こういったリーダーは皆様、英語はある程度できます。ただ、例えば投資家に響くような話し方ができるかや、メディアに「サウンドバイト(※)」として発言を使ってもらえるかどうかというのはまた別の能力なのです。そのため、よくメディアトレーニングをしています。私が記者役となり、答えにくい意地悪な質問をぶつけ、やり取りをビデオ録画してチェックします。ダメ出しをしてまた練習し、本番にのぞむのです。
※サウンドバイト:ニュースなどの放送用に抜粋される短い発言のこと。

アスリートもメディアトレーニングを受けています。基本的な、メディアの前でやっていいこと・ダメなことを伝える程度のものから、エージェントやPR会社が入った本格的なものまでさまざまです。アメリカでは、どの競技団体もとてもしっかりとしたメディアトレーニングをしています。さらに、いまは選手自らがSNSで発信できる時代。炎上の危険性もありますが、アスリートのファンを増やし、競技の人気を高めるだけでなく、ファンとの交流という意味でもお互い楽しいですよね。

ただ、あまりメディアトレーニングをしっかり受けてしまうと、どの会見でも紋切り型の発言になってしまうという残念な面もあります。血の通った発言であれば、やはり聞いていても、訳していても気合いが入ります。社交辞令を訳すだけだったらAIにお任せできる時代ですので、私は生身の人間の心を訳したいなと思います。

また時代柄、アスリートは政治について発言しない、という暗黙? のルールはもう無理があるような気もします。選手が政治的な要素が絡む発言を求められ、言葉を選んで発言しているときこそ、通訳者も緊張します。
2018年の平昌五輪でIOCがロシアの選手団派遣を禁止したときには、記者会見でのロシア語の誤訳が発端で、発言をした選手が窮地に陥ってしまうのでは? という事態が発生したこともありました。幸い、すぐに競技団体として訂正を入れ、お詫びの声明を出して事態を収束させたのですが、このときは通訳者全員が自分ごととして身の引き締まる思いをしました。

エヴァン・ベイツ選手の見事な回答

この2023年3月に日本で開催された世界選手権でもドキッとすることがありました。
それは私のパートナーが通訳を担当している記者会見でのこと。ある質問を聞いた瞬間、反射的に「どうしよう?」と思いました。しかし、通訳者はどんなに聞きにくい質問でも、言いにくい言葉でも通訳するのが当たり前。百戦錬磨のパートナーはいつもの通り訳していました。

その質問は、「ロシアがいないことによって、フィギュア界やアイスダンスにとってはどんな影響がありますか?」という趣旨のものでした。メディアとしては当然聞きたいことであり、避けるべき質問でもないと思います。

まず感じたのが、これがシングルやペアでなく、アイスダンスの記者会見でよかったということです。同じ記者会見中に選手の方が冗談のようにおっしゃってもいましたが、舞台に並ぶのは80年代生まれと90年代生まれが半々という陣容でした。つまり、それだけ大人なのです。もちろん、シングルでもペアでもちゃんと対応できる方々はいますが、その質問や発言によって本人にマイナスの影響が出たらと思うと心配です。今回アイスダンスで表彰台に上がったのは、皆さん熟練した職人のような方々で、簡単には動じません。
アメリカのエヴァン・ベイツ&マディソン・チョック組が1位でしたので、最初に答える立場にありました。前述した通り、アメリカのメディアトレーニングは充実しています。エヴァンがリーダーシップを発揮していました。

エヴァンは選手代表として選手のために活動する意欲があり、競技全体の将来も考えていらっしゃる方です。アメリカは北京五輪団体戦のメダルが確定していないことに不快感を抱いていますし、ロシアのウクライナ侵攻後は、スケート界でもロシア排除に動く国々も多くあります。仲間として切磋琢磨してきたスケーターの一人ひとりがどう思っているかは本当のところはわかりません。しかし、冷静に大人の回答をしてみせたのは「あっぱれ!」と思いました。

*ISU世界フィギュアスケート選手権大会2023の、アイスダンス&リズムダンス部門の記者会見の様子。上記の質問&回答は動画の20:33の箇所より

【原文&平井さんによる日本語訳を紹介!】
エヴァン・ベイツ選手の言葉&日本語訳

エヴァン・ベイツ選手による質問への回答:

I will try to be brief in the interest of time but I would say just based on the atmosphere in the building tonight, you see a love for figure skating that is shared between the fans and the skaters and there is no better place than Japan to experience that. I think figure skating is in a great state right now, the world championships seem to be very competitive across all disciplines. Skaters have prepared all year to come here and put out their best performances. We are only half way through but I think based on the events that have concluded so far and the programs that have been skated it’s incredibly entertaining for the audience and the audience are incredibly rewarding for an athlete to come here and put your stuff out there against the best of the world.

平井さんの日本語訳:

時間もないので簡潔にお答えします。今日の会場の雰囲気を見れば、フィギュアスケートに対する思いをファンと選手が共有していることがわかります。日本ほどそれが実感できる場所はないと思います。そういったことからも、フィギュアスケートは良い状況にあると思います。世界選手権はどの種目もとても競争が激しいです。選手は1年を通じてこの世界選手権に出場し、最高の演技をしようと思って頑張っています。まだ折り返し地点ですが、すでに行われた競技、選手たちが滑ったプログラムを見ると、どれもとても見ていて楽しいものですし、アスリートとしてもこのようなお客様の前で世界のトップ選手と競い、自分のやってきたことを出し切ることができるのはとてもやりがいのあることですね。

ロシアという言葉もなく、マイナスなことは一切言わないのです。ただ、スケートの素晴らしさ、世界選手権という最高峰の戦い、日本のフィギュアファンへの感謝の気持ちを伝えています。日本の政治家の方にも学んでいただきたい、難問への模範回答です。メディア側がコメントを切り出そうとしても、隙がない、完璧な発言です。発言について“ロシアを批判!”とか、“ロシア不在は本当の世界選手権ではない!”といった見出しを書こうと思っても書けない内容です。

質問を受けて、瞬時にこれだけのことが出せる頭の回転の速さは流石です。どの競技でもいつも思うのですが、トップ選手は皆さん頭が良い、Cleverなところがあります。大人の嗜みとして私も身につけたいなと思います。

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平井美樹
平井美樹Miki Hirai

会議通訳者兼スポーツ通訳者、 日本スケート連盟通訳者。学生時代にESPN Sports Centerを翻訳するアルバイトから通訳の道に入る。NHKの大リーグ、NBA、NFL放送の通訳スタッフ、広告代理店の社内通訳を経て、現在はニュース、国際関係、安全保障、企業買収からエンタメ、相撲の英語放送までをこなす放送・会議通訳者。五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わるほか、日本スケート連盟の通訳者でもあり、数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務める。日本から海外へのPR、エグゼキュティブ向けグローバルコミュニケーションコンサルタント、企業からアスリートまでのメディアトレーニングも手がける。