• 通訳

2025.06.25 UP

第15回(最終回) お仕事もスポーツも 一期一会を大切に

第15回(最終回) お仕事もスポーツも 一期一会を大切に

会議通訳者、兼、スポーツ通訳者として活躍されている、平井美樹さんによる連載コラム!
日本スケート連盟の通訳者として数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務めるほか、五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わる平井さんが、フィギュアをはじめとするスポーツの通訳の仕事について語ります。
(*今回が最終回です)

「スポーツ通訳者」になるまでを振り返って

きっかけは大学時代のアルバイト

私はスポーツ通訳者としてよくご紹介いただきますが、通訳という世界に踏み出した入り口がスポーツであっただけとも言えます。
今の仕事へと続く道は、学生時代のアルバイトがスポーツニュースの翻訳だったということから始まりました。ESPN(アメリカのスポーツ専門チャンネル)の「SportsCenter」という、ありとあらゆるスポーツニュースを扱う30分の番組を、耳で聞き取って翻訳する仕事で、スピードは通常のニュースの倍速に感じるほど早口。内容は略語やスポーツ用語にスラングがいっぱい。帰国子女の学生にはぴったりのお仕事だったかもしれません。

他のメンバーは男子学生も多く、アメフトやバスケの経験者ばかりでした。「訳す」という行為もしたことがない中で、耳も翻訳力も鍛えられたことに今も感謝しかありません。多くのディレクターさんが、私の変な日本語を解読するのにご苦労なさっていたこと、今でも申し訳なく思います。「あんな美樹がここまで成長して!」と言ってもらえるようにはなりました。

社会に出た後も、結婚してフリーの通翻訳者になったときに、アメリカのメジャースポーツの番組を担当する翻訳スタッフとして色々と鍛えていただきました。先輩たちがスペシャリストである中で、どの能力も低いながらもがき、たまにある同時通訳などで自分なりに手応えを感じるようになっていました。やはり、通訳学校でしっかり勉強をしてスポーツ以外のジャンルで、通訳者としての王道を、放送や国際会議の通訳をできるようになってみたいと思い始めたのもこの頃です。スポーツの翻訳・通訳をしながら、NHKの国際研修室に通って会議通訳の勉強もしました。

1998年の長野オリンピック、もちろんフィギュアスケートを担当したいと思いましたが、まったくそんな繋がりもないので無理な話でした。
それでも日本開催のオリンピックに関わりたいという思いだけで、周りの方のお力をかりて、国際放送制作の現場での通訳スタッフとしてアルペンスキーの現場に配置いただきました。

ウェアなど一式いただき、張り切って、コースのカメラポジションなどの調整の通訳などに入りました。コースに登る時はリフトですが、帰りは歩きで降ります。しかし吹雪になってしまい、まったく前が見えないなか、コース整備にあたっていた自衛隊の方々に半ば救助していただくような形で山を降りてきました。さらに翌日からインフルエンザで40度の熱を出し、使い物にならない日々が続きました。ご迷惑をおかけした“お荷物”としてのレッテルがついた長野五輪、ほろ苦い思い出です。

2002年 W杯での出来事

そして2002年日韓ワールドカップ、なんとかそこでお仕事がしたいなと思って、エージェント様にもアピールをしておりました。このときには仕事に対してとても貪欲になっていて、「一大イベントの中枢で通訳を!」とやる気に溢れていました。

あるエージェント様が、大会前のFIFAの会議や視察に対応するため、きちんと通訳もできて、接遇もできる人を探しているらしいとお声がけをいただき、喜んで集合場所のホテルに伺いました。すると、業務内容はホテルのロビーに設けたFIFAデスクに立って、ツアーコンダクターの皆様と共にお客様に対応するというものでした。きっと旅行代理店の引き受けたお仕事の現場に、私を無理やりねじ込んでくださったのでしょう。ただ、そこは「通訳」としての力はあまり発揮できない現場でした。

ツアーコンダクターの皆様はもちろんその世界のプロですから、ゲストのいろいろなご要望に対応できます。私はその場では、英語ができるだけの役に立たない人間でした。知り合いの通訳の方々が会議などで通りかかって「何でこんなところにいるの?」と驚かれた時はさすがに惨めな気持ちなってしまいました。エージェント様も気の毒に思ってくださったのか、菓子折りを持って駆けつけてくださいました。

このことから私はたくさんのことを学んだので、今は有難く思います。まず、自分の思い上がり。ツアーコンダクターのお姉様方からしたら、畑違いのイキがってる生意気娘がと思われたはずです。実際、いろいろとご注意などいただきました。
エージェント様からは「こんな内容とは知らずにすまなかった」と謝られ、余計惨めにもなりましたが、トイレで悔し泣きをしてから、それでも残り数日間、お仕事として引き受けたのだからと自分の甘さを反省して、ロビーに立ち続けました。
そんな中、自分だからできた対応というのもいくつかありました。難しい英語の内容の書類を読み解き、ツアーコンダクターの方々の役に立ったり、フランス語での対応など。笑顔で皆様をお迎えする。たいしたことではありませんが、自分が足を引っ張るだけではない存在になりたいと思ってのことでした。

実際この後、大会期間中は自分で直接交渉をして、ワールドカップの中継のスタッフとして日本と韓国でお仕事をさせていただきました。韓国ではフランスチームがまさかの敗退で日本の地を踏まずに帰国。フランスのツテを頼っていろいろと情報収集にあたりました。お仕事も情報も、自分で取ってくるものだという教訓を生かせる大会となりました。
2002年のワールドカップは報道も特別体制になっており、スポーツが得意な通訳者ということで、ニュースの日英同時通訳で私にお声がかかりました。残念ながら大会期間中は現場にいたのですぐデビューというわけにはいきませんでしたが、まさに“a foot in the door”で、その後、日本のニュース同時通訳の現場に入れていただけるきっかけをいただきました。
こうやって、チャンスを頂いたら逃さない! そして誠心誠意でのぞむ。この繰り返しが私にとっては正しい道でした。

自分で責任をもってお仕事を取ってきて、こなす。しかし、やはり周りの皆様が色々とお力添えをしてくださるからこそお仕事はいただけるものです。どんなお仕事もチャンスをいただいているということ。そして不本意な内容であったとしても、フリーランスの通訳者としてそこから得られる糧は自分次第だということです。このようないわゆる下積みを重ねて、かつ大きなチャンスをいただいたときに実力を発揮して「次にまた頼みたい!」と思っていただけるように準備する。毎回、一期一会の精神で挑むということですね。

後輩のデビュー戦を見届けて

今年の4月、フィギュアの国別対抗戦が東京で開催されました。昨年のNHK杯でのOJTにいらしていた通訳者のお一人が、この大会でデビューをしました。通訳能力は当然のことながら、やはりこの方の度胸と「やらせてください!」と堂々と言える、ひたむきな姿勢に私も動かされました。貪欲に学び、なんでも吸収しようという姿、そして恐怖に打ち勝って大きな本番にのぞむ姿。応援したくなりますよね!

初めての記者会見に向けて準備をし、多くの人の目が注目している中で訳出をしていく。声は震える。理解できているか? 不安がよぎる。私も一緒に固唾を飲んで見守っていました。ご本人にはbitter sweetなデビューだったと思いますが、この数日間で一気に成長なさっていくのを目の当たりにして、私も負けていられない! と思いました。
このように、通訳者は周りの皆様に支えられて一人前になっていくのですね。私も恩返しと思ってこれからも自分の腕を磨くだけでなく、協働していきたいと思います。

どんなお仕事でも、一期一会を大切にし、自分のやりたいお仕事のチャンスを掴むためには、まずは目の前のお仕事をひとつひとつ精一杯やらせていただく!
そして自分の商品価値をどんどん見出し、磨きをかけていきましょう! そして、何より楽しみましょう!

こちらの連載は今回で最終回となります。守秘義務がある中でみなさまと共有できることは限定的でしたが、少しでも私の失敗談がお役に立てばとの思いから拙い文章を載せていただきました。読んでいただいたみなさま、今までありがとうございました!

どーもくん
フィギュアスケートNHK杯でのオフショット。

★前回(第14回)の記事はこちら

★連載一覧はこちら

平井美樹
平井美樹Miki Hirai

会議通訳者兼スポーツ通訳者、 日本スケート連盟通訳者。学生時代にESPN Sports Centerを翻訳するアルバイトから通訳の道に入る。NHKの大リーグ、NBA、NFL放送の通訳スタッフ、広告代理店の社内通訳を経て、現在はニュース、国際関係、安全保障、企業買収からエンタメ、相撲の英語放送までをこなす放送・会議通訳者。五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わるほか、日本スケート連盟の通訳者でもあり、数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務める。日本から海外へのPR、エグゼキュティブ向けグローバルコミュニケーションコンサルタント、企業からアスリートまでのメディアトレーニングも手がける。