
会議通訳者、兼、スポーツ通訳者として活躍されている、平井美樹さんによる連載コラム!
日本スケート連盟の通訳者として数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務めるほか、五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わる平井さんが、フィギュアをはじめとするスポーツの通訳の仕事について語ります。
経験を重ねて「本番力」は身につく―デビュー当時の思い出
「心臓に毛が生える」と言うけれど……
心臓に毛が生えるとよく言いますが、緊張感あふれる本番でも場数を踏んでいけば、いずれは慣れて図太くなるはずですよね。
私の場合は、30年に及ぶキャリアでますます心臓の毛が抜けてきている気分です。何度やっても、慣れるところもあれば、本番の怖さを実感できる余裕がでてきたからでしょうか、本番前日に逃げ出したい、キャンセルにならないかな? なんていう考えが頭をよぎることもあります。
度胸が鍛えられるものなのかは不明ですが、私なりに度胸で勝負してきたからこそ、逃げ出さずに本番に臨めているのかもしれません。恐怖や緊張もいざ始まってしまえば、アドレナリンが放出されて楽しんでさえいる自分がいます。

人と人の間を通訳するというデビュー戦は、まだ大学生のアルバイト時代でした。
TV番組かなにかの制作会議で、映画グラン・ブルーで有名なフリーダイバー、ジャック・マイヨールさんの通訳をすることになったのです。
ホテルのレストランで会うことになっていましたので早めに行くと、白髪のマイヨールさんは、映画のイメージとはずいぶん違います。あんなにアンニュイな感じはせず、すこし少年のような印象もありました。
席に着いて会議が始まっても、まさにイルカのようにきょろきょろっとされています。ご挨拶をしたときに、彼は澄んだ目でじっとこちらを見つめていらっしゃいました。マイヨールレーダーでしょうか? 一応、悪い人間ではないという分類には入れていただけたのかもしれません。とても優しい方でした。
ただ、日本側は色々と細かいところまで決めて、ご本人の了承を頂こうとしている中で、「この点はこれでよろしいですか?」と通訳すると、なぜかまったく関連のない話から入り「何の話をしているのか?」となってしまう状況が何度かありました。
日本側の雇い主からすると、やっぱり学生の通訳だからちゃんと訳せていないのかな? なんて不安に思っていらしたことでしょう。私も訳すだけで精一杯、「なぜ通じないの?」と焦っていました。
その焦りを感じていたのかはわかりませんが。訳し終わるたびに、ニコッと優しく私をみて頷いてくださいました。「このままではいかん!」と思っていた私は、また日本側の「こうしますよ。よろしいですね?」という発言を、今度はフランス語で訳し、最後に “D’accord?”とちょっと強めに「良いわね!」という感じで訳してみました。
マイヨールさんも一瞬キョトンとなさり、“D’accord” と返事をしてくださいました。日本側の欲しがっていた了承をもぎ取った瞬間でした。このデビューの洗礼を受けた日のことは、細かいことは忘れてしまいましたが、現場で感じた焦燥感だけは今でもすぐ思い出せます。
もう一つのデビュー戦
もう一つ、同じような時期に果たしたデビュー戦は、Jリーグ名古屋グランパスに入団したゲイリー・リネカー選手のインタビューをとるというお仕事。
そのときの現場には当時のJリーグチェアマン、川淵三郎さんも同席していらっしゃいました。
学生であるということがバレないように、一張羅の黒いワンピースでカチッと決め、本番にのぞみました。
インタビューは順調でした。逐次通訳の際に、何一つ漏らさないようにと目をグッと開き、全集中していました。いわゆる「ゾーン」に入っていたのでしょう。リネカーさんも、「日本語で話せることはありますか?」の問いに “けんたっきーふりゃあどちきん” と名古屋弁風に返してくださるサービス精神旺盛の方でした。
そんな中、自分でも「あれ? ちょっと違うかな?」と違和感を感じつつ訳していたある表現がありました。じつはこの出来事、まだショックで何をどう間違えたか思い出せないのです。
間違いに気づいたのは、やりとりを聞いていた川淵チェアマンが最後に「通訳さん、あそこは○○ではなくて△△だろうな」と、ご指摘をしてくださったときです。最後だったので良かったのですが、とてもショックを受けて、「大変失礼いたしました。ありがとうございます」と頭を下げるのに精一杯でした。制作側もその訂正を反映してくださり、問題にはなりませんでしたが、そのあとは頭がずーっと真っ白でどうやって帰ったかも覚えていません。
本来なら、何をどう指摘されたかをここで皆様に共有したいのですが、それさえも吹っ飛ぶほどの「まずい! やばい!」という心境、お察しください。
こういう現場や失敗を重ねて、本番力は身についてきたのかもしれません。そして、スポーツの現場でアスリートが本番に実力を発揮するためにどのように鍛錬し、精神的に自分を整えてのぞむかを見せていただき、自分もそれを通訳に生かせるようにと務めてきました。
ですから心臓の毛は抜けてツルツルですが、めざすべき姿の解像度が上がっているぶん、ひとつひとつの本番にのぞむイメトレや心構えは、デビュー時代よりもだいぶ鍛えられてきたのではと思います。
今回は最後に、ジャック・マイヨールさんの言葉を紹介いたします。
イルカと心が通じるという、ある意味究極のコミュニケーションの極意が詰まっている言葉です。
真っ暗な、静寂な海の底で覚悟を決めて、親身で純粋な愛をもちあわせているか試されるわけです。通訳者にも通じる教えだと思っています。
“You go down to the bottom of the sea, where the water isn’t even blue anymore, where the sky is only a memory, and you float there, in the silence. And you stay there, and you decide, that you’ll die for them. Only then do they start coming out. They come, and they greet you, and they judge the love you have for them. If it’s sincere, if it’s pure, they’ll be with you, and take you away forever.”
― Jacques Mayol
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会議通訳者兼スポーツ通訳者、 日本スケート連盟通訳者。学生時代にESPN Sports Centerを翻訳するアルバイトから通訳の道に入る。NHKの大リーグ、NBA、NFL放送の通訳スタッフ、広告代理店の社内通訳を経て、現在はニュース、国際関係、安全保障、企業買収からエンタメ、相撲の英語放送までをこなす放送・会議通訳者。五輪やサッカーW杯、ラグビーW杯にも通訳として関わるほか、日本スケート連盟の通訳者でもあり、数多くのフィギュアスケートの大会で通訳を務める。日本から海外へのPR、エグゼキュティブ向けグローバルコミュニケーションコンサルタント、企業からアスリートまでのメディアトレーニングも手がける。