Vol.30 外国語の海に生まれて
/通訳者 蛇川真紀さん

絵本が大好き。でも発話は苦手

現在5歳の娘は、陣痛が来る前に生まれるほど安産でした。夜中の授乳も聞いていたほど辛くはなく、「なんだ、楽勝じゃないか」と思ったのもつかの間、娘は1歳半を過ぎても歩くことも指さすことも話すこともありませんでした。気づけば母子手帳の「~はできますか?」というページに「いいえ」が並ぶようになります。
何より、ほかの子どもたちと一緒にいても、一人だけ自分の世界で遊ぶ娘は明らかに浮いていました。さまざまな機会で異常を指摘され、2歳を過ぎて付いた診断は「自閉スペクトラム症」(いわゆる自閉症)でした。
もともと自分の子どもに英語を習得してほしい、よい大学に行ってほしい、とは考えていませんでしたが、本は読んでほしいと強く願っていました。決して順風満帆とは言えなかった自分の歩みから、本で得られる知識や学びは人生の暗がりを照らす「明かり」のようなものだと信じていたからです。辛いことや困ったことがあったら、いろいろな書物をひもといてほしい、そう願っていました。
そのため、生後1~2カ月目には地域の図書館で開催される乳幼児向けの朗読会に連れて行き、せっせと絵本を買っては毎日読み聞かせていました。幸い、娘も絵本のカラフルな色使いや単純なフレーズが気に入ったようで、どんどん絵本の世界に没入していきました。没入しすぎて朝から晩まで絵本をせがむようになり、1日150回以上も読み聞かせをする羽目になりましたが。

家中に絵本が散乱している

しかし、これだけ本を読んでいても娘はあまり話せません。読み聞かせた本の丸暗記は得意で一日中ぶつぶつ暗唱していますが、「おみず」「パン」といった単語単位の要求も未だに苦手なのです。なぜかはわかりませんが、おそらく娘には母語というものが存在しないのではないかと勝手に想像しています。周りの言葉や音声はすべて自分が理解できない外国語のようなもので、何か発語することは、知らない国のレストランで冷や汗をかきながら現地語で注文するのと同じような感覚なのではないかと考えています。

学ぶ機会は奪いたくない

そんな娘に、英語や異文化に触れさせるべきなのかは悩みました。ただでさえ、「外国語の海」の中で一生暮らすことを運命とする娘に、これ以上の負担を与えない方がよいとも思えたからです。それでも、夫の希望もあり近所の英語教室に行かせることにしました。障がいがあるからといって学ぶ機会を奪うのはよくない、ダメだったら止めればいいのだから、というのがたどり着いた結論です。残念ながらその英語教室は閉鎖してしまい、現在はNHKの「えいごであそぼう」やYouTubeの「Little Baby Bum」を見る程度ですが、「Picnic」「Orange」と簡単な単語を楽しそうにつぶやいています。アルファベットも読めるようになり、最近では私が英語で話していると、「ハロー」と言いながら割り込むようになりました。

大好きな父親と。

なめらかに英語を駆使しながら世界の要人と大型ディールをまとめ、グローバルに活躍する―残念ながら、どんなに親バカな色眼鏡で見ても娘がそのような人生を送るとは思えません。でも、それでいいと思っています。娘にとって、本を読むこと、英語に触れることは、ぜいたくな遊びです。未だに何が正しいのかはわかりませんが、娘が笑顔でいられる限り学びの機会を与えたいと考えています。
今後、娘は大きくなるにつれて、私たち親が経験したことのない多くの問題に向き合うことになるでしょう。娘が苦しいときに十分に寄り添ってやれるのか、正直自信はありません。成長する娘を見て、「どうしよう、こんなに大きくなってしまった」と胸が締め付けられるような気持ちになることもしばしばです。それでも、いろいろな荷物を背負いながら歩む娘の道を、さまざまな学びが少しでも照らしてくれることを心から、願っています。

お気に入りの絵本を片手に。