好きな作家の翻訳者に抜擢 原書の味わいを生かしたい/小竹由美子さん

結婚以来ずっと、夫の郷里である香川県で暮らしています。子育てが一段落ついたとき、子どもの頃から翻訳物を愛読してきた私は、ふと翻訳をやりたいと思い立ちました。ですが当地には翻訳学校や講座は皆無、大学は法学部だったので語学や文学の世界とはそもそも無縁、どこからどうとりついたらいいものか、なんの手がかりもありません。とりあえず翻訳の雑誌や有名翻訳家による指南書を頼りに独学しつつ、コンテストへの応募を繰り返しましたが、一向に成果は出ません。

ビギナーズラックで児童書の企画が通る

そんな時、友人の紹介で児童書編集者に絵本の試訳を見てもらう機会を得ました。訳文はなかなかいいですよ、何かおもしろい本を見つけたらご紹介くださいね、と言われて発奮した矢先、東京の書店で元気のいい女の子が主人公のイギリスの児童書を見つけました。早速その作品を丸ごと訳して件の編集者に送ったところ、なんと、その著者の別の作品の刊行を予定しているので次はこれにしましょう、と、企画が通ってしまいました。まさにビギナーズラックです。

すっかり気をよくした私は、惚れ込んだ作品のレジュメを作成してはカラーの合いそうな出版社に送る、という、今思えば無謀としか言いようのないことを始めました。恐らく大半は封も切られずゴミ箱行きだったのではないかと思うのですが、なかにはお返事をくださる優しい編集者もいらして、そんなおひとりが後に新潮社でクレスト・ブックスを担当されることになり、仕事へと繋がりました。

大好きな作家の訳者に翻訳とは究極の「読む」

アリス・マンローの作品と出会ったのは、なしの礫のレジュメをせっせとあちこちへ送っていた頃のこと。いつかこの人の作品を訳したい、というのは私の見果てぬ夢でした。新潮社の仕事をさせていただくようになった時にマンロー作品の魅力はお伝えしたのですが、はかばかしい反応はありませんでした。

ところがその後、『ジュリエット』の原書が刊行されて版権エージェントから新潮社に打診があったときに、私がマンローの大ファンであることを思い出した編集者がリーディングをまわしてくださったのです。読んでみて、クレストから初めてマンローを出すのならば『イラクサ』のほうがいいと思い、レジュメを添えてそうお伝えしたところ、刊行が決定。幸い読者の反応が良かったため、その後も続けてマンローの短篇集を訳させていただくうちに、2013年、マンローがノーベル文学賞を受賞するという夢のようなことになりました。

翻訳の世界になんの手づるもない地方在住の私がここまでやってこられたのは、縁と運に助けられたからこそ、とつくづく思います。縁といえば、最もおかげを被っているのがインターネット。翻訳作業で大いに助けられているのは無論のこと、周囲に翻訳者など滅多にいない環境で暮らしながら今や同業の友人が結構いるのは、ネットやSNSのおかげです。読まれた方の感想を拾えるのもSNSの有難いところ。ひっそり絶版になってしまった思い入れの深い訳書について、「私にとって大切な一冊」などと書いてくださっている方がいると、こういう方の手に届いたというだけで訳した甲斐があったと、しみじみうれしいです。

自分は根っからの「読者」なのだとよく思います。表現欲はあまりなく、とにかく読むのが好きなのです。そして、言うまでもないことですが、翻訳というのは究極の「読む」です。作品世界にすっぽり入り込んで、一語一語確かめながら作者の考えや思いをたどっていく、これほど贅沢な読書はありません。

しかも、普通なら読むことで得たものはただ読み手の脳裏に(私のザル頭の場合はかなりうすぼんやりとした)記憶となってたゆたうだけなのに、翻訳の場合は一冊の本という確かな形で残るのです。自分の「読み」が日本の読者にとってはその作品そのものとなるのだと考えると、責任の重さにたじろぎますが、作品への愛をバネに、原書の味わいをできるだけ生かした訳文をめざして、これからも精一杯励みます

 

★『通訳・翻訳ジャーナル』2019年秋号より転載★