
Vol.28 タイミングが良かった
3兄弟のバイリンガル育児(前編)/通訳者 七條真理子さん
通訳の仕事をしながら、子育てを頑張っている現役世代とは違って、専業主婦の私が通訳の仕事を始めたのは、5年間の夫の米国駐在に同行して帰国後のことだ。小学生の息子たちがバイリンガルになれた4つのタイミング+1、その彼らが自分の子どもをどう育てようとしているのかをお話ししたい。
前編は渡米から帰国まで。
第一のタイミング:渡航時の年齢
双子の長男次男は幼稚園年長組から小5まで、三男は3歳から小2までアメリカのロサンジェルス近郊の現地校に通学した。第二言語を習得し、維持しやすい年代だった。
父が海外とのビジネスをしていた影響で、私も英語が好きになり、留学したかったが叶わなかった。夫の駐在が決まって誰より喜んだのは私。日本人の少ない所に住んで、子どもは現地校に入れると決めた。
息子たちの反応はそれぞれだった。一卵性の双子だが性格は違い、長男は用心深く、観察期間を経て2、3カ月後、喋りだした。次男は最初から片言で溶け込んだ。三男はまだ3才で、日本語もおぼつかなかったので、英語の習得も時間がかかった。
母国語のベースがある程度固まってから第二言語を習得したほうが早いと思われる。自分が何者かアイデンティの問題もある。ただ耳から吸収するので、すでに母国語に耳が慣れている小学高学年以上の子どもは大変そうだった。
第二のタイミング:滞在中のアメリカ
あの頃のアメリカはなんとか豊かな超大国の座を守っており、ほかの国にも寛大だった。
公立は学校区単位で、校区に裕福な家庭が多ければそれだけ学校の予算も増える。駐在員は郊外の治安の良い場所を選ぶが、その子どもでも移民の子でも分け隔てなく、ESL(English for second language)のクラスで専任の先生が個別指導をしてくれた。予算が潤沢だと音楽、美術、スポーツのクラスが充実し、息子たちは実にさまざまなプログラムの恩恵に預かった(不況になるとすぐに削られる)。
算数は日本人が得意の科目だ。アメリカの子どもが指で計算する中、公文の国語と算数の通信教育を継続していた息子たちは天才と思われた。やがて双子はGifted programに選抜され、週一回スクールバスで各校から集合し、特別指導を受けた。といっても思考力を伸ばすためか、チェスのクラスで遊んでいた。
母親の私は、ビザの関係で仕事はできないので、大学に通ったり、PTA活動もやった。現地コミュニティに溶け込もうとする親の姿を見せたいと(というより英語社会で生活する夢が叶って)、ボランティアや防災担当の役員に手を上げた。消防署と連携してイベントを開催、防災意識を高めるための教室やグッズ販売を手掛けたのは、当時の英語力を思えば自分をほめてやりたい。アメリカ人のママ友を作り、家族ぐるみの付き合いをした。息子はボーイスカウトに入会し、母子でキャンプにも行った。
楽しい経験の報告は、当時PCやネットもまだ普及していなかったので、手書きの“Shichijo Times”を発行してコピーして送ったものだ(アナログ!)。
第三のタイミング:帰国時期
駐在員だからいずれは帰国する。日々アメリカ人化する息子を見ながら、日本人であることを忘れるのではと焦った。日本文化を大切にと四季の行事は欠かさないようにした(だんだん手抜きになったが)。日系人が運営する剣道道場に通わせたのも作法を学んでほしかったからだ。
土曜日は補習校で日本の学校の5日分のカリキュラムをこなし、宿題も大変だっただろう。家では英語は禁止。でも子ども同士は英語での会話が増えていく。これ以上両立は無理かという時、帰国が決まった。