
Vol.13 毎年4カ月は福島の学校へ/翻訳・通訳者 クレアリー寛子さん
私は現在、米国ミシガン州で翻訳業をしながら、ひとり息子の子育てをしています。今年で12歳になる彼は、米国で公立学校に通っていますが、毎年約4カ月間は私の故郷である福島県の公立学校にも通っています。我が家で取り組んでいるクロス・カルチュラルな子育てについて書いてみたいと思います。
日本で生まれ、4歳で米国へ
息子は静岡に生まれ、1歳の頃に東京へ引っ越しました。物心がつく頃、米国人の父と私が英語で会話すると、嫌がって泣くようになりました。私が英語で子育てしなかった「ツケ」が回ってきたのです。
そこで、米国に住む親族の勧めで、4歳から入れる小学校付属の幼稚園に1年通ってみることにしました。幼少期の柔軟な脳は、恐るべき早さで物事を吸収し、4ヶ月が経つ頃には日本語をほとんど話さなくなりました。
やがて我が家はカリフォルニア州へ引っ越すことになりました。日本を離れて丸2年が過ぎた頃には、生活言語はすべて英語になっていました。移民が多いカリフォルニアでは、小学校3年生までに英語が非母国語の生徒たちをバイリンガルにするという、州全体の教育的底上げ方針があったのです。
おかげで、すぐれた英語教育を受けることができ、英語の能力が飛躍しましたが、今度は日本語への関心が薄まってしまいました。息子はファーストネームが日本名なのですが、それにも違和感を覚えるようになっていました。そこで、小学校入学前に日本に一時帰郷することにしました。
日本に着いてすぐは日本語が出ませんでした。しかし、祖父母が根気強く日本語で話しかけ続けたところ、2週間目に変化が起き、日本語がぽつぽつと出るようになりました。やがて、どんどん日本語に切り替わり、半ば諦めかけていた祖父母は驚きました。
退職した教育者の祖父の分析によれば、幼少期は「上積み脳」なのだそうです。経験が上積みされると、下にあったものは見えなくなりますが、消えてしまったわけではないので、成長すれば引き出せるようになります。
第1言語だった日本語は、消えてはいなかったのです。その実、根を張って出番を待っていました。それなら、引き出す能力を伸ばしていけばいいのです。その才能はすでに開花しているようでした。そこで、小学生になったら1学期間だけ福島県の公立小学校に通わせてみよう、ということになりました。
毎年4カ月間の福島留学
東日本大震災から2年が経過し、福島県では原発事故の影響で県外に避難する家族がいました。なぜわざわざ戻って来たのか、と地元の人に聞かれました。私の実家は中通り地方の二本松市で、地震による大規模な被害はありませんでしたが、放射能汚染に苦しんでいました。小学生は被曝線量計を身につけていました。
小学校1学年に入学し、皆同じスタートラインから始まったので、学習には問題はありませんでした。しかし、カタカナの名字と父似の容姿でイジメにあいました。「ガイジン」と呼ばれて名前を呼んでもらえません。仕舞いには喧嘩になり、私は学校に呼び出されました。
自分は日本人なのに何で「ガイジン」なのか。何が違うのか。その答えは彼自身で見つけなくてはなりませんでした。
4年生になったある日、鏡の中にその答えがありました。そうか、この「顔」が原因なのか!それからは、「ガイジン」と呼ばれても気にしないようになったそうです。
仲の良い友達もできました。「ガイジン」と呼ばれると、代わりに友達が「こいつは、日本人です」と言ってくれるようになったのです。友情は深まり、福島の親友たちと再会することが心から楽しみになりました。
4年前、カリフォルニア州からミシガン州へ転居しました。ミシガンで英語のテストを受けたところ、バイリンガルのレベルに難なく合格しました。ただ、それは移民が少ない学区には専属の英語教師も少なく、きめ細かな対応ができないためでした。以来、息子は日本からきたばかりの生徒が困っているのを見つけると、積極的に手をさしのべています。
福島への留学は、今年で6年目を迎えました。1年生から4年生までは4月から7月の間でしたが、5年生からは6月から10月に時期をずらしました。おかげで、10月4日から6日に行われる「二本松提灯祭り」で祭礼囃子(県指定重要無形民俗文化財)を叩く機会にも恵まれています。少子化に悩んでいた若連衆から歓迎され、今年も参加することになりました。
日本語と英語のはざまで、大切なものが見えてきたようです。将来は自然環境を保護する仕事に就きたい――12歳の冒険は、まだ始まったばかりです。