
苦戦した駆け出し時代 5年かけ憧れの吹替を
翻訳学校を卒業してから半年後、登録した翻訳事務所から依頼が来ました。取材テープの要約です。しかし初仕事にガッツポーズをキメたのも束の間、あえなく挫折しました。素材翻訳はバイリンガル・レベルの聞き取り能力が求められる分野。早々に退散しました。
その後は迷走、迷走、また迷走の日々です。
1998年当時はCSやBSの放送局が次々と立ち上がり「映像翻訳者が足りない」と言われた時代。にもかかわらず履歴書をいくら出せども反応はありません。完全に既読スルー状態でトライアルを受けることすら叶いません。
「経験者」という三文字の壁は遥かに高く厚い。仕事をもらえなければ経験者になれないが経験者しか仕事がもらえないって何の問答だっ。
……と自分の実力不足は棚に上げ、負の感情が芽生えます。各社へのウラミツラミ、同期へのやっかみ、帰国子女への嫉妬。私はドス黒い感情を溜め込みながら周囲が仕事を獲得するのを眺めていました。
そんな私の目を覚ましてくれたのは同期の翻訳仲間です。正社員の仕事と二足のわらじを履き、講師の紹介で繋がった翻訳会社から数カ月に1本仕事が来るようになった頃。同じシリーズに採用された彼女には、私の何倍も依頼があることを知りました。
悔しかった。情けなかった。何より自分に腹が立った。同期だろうと仕事に差がつく。そんなことにも気づかないなんて大バカです。ただ、あらゆる負の感情がない交ぜになったとき大きな原因に思い当たりました。
それは富士山よりも高く贅肉のようにムダなプライドです。実力も経験もない翻訳者にとって、これほど有害なモノはありません。
同期の活躍に刺激 翻訳会社でアルバイトを
それから彼女に頼んでオンエア後の完成原稿を見せてもらいました。自分との実力差は歴然です。丁寧で流れがあって頭にすんなりと入る、すばらしい字幕でした。
間もなく私は二足のわらじに限界を覚えて正社員の仕事を辞め、前述の翻訳会社で制作アルバイトとして働き始めました。主にスポッティングを担当しました。
そのアルバイトの傍ら翻訳関連の雑誌をめくっては「映像」の二文字を探し、片っ端から履歴書を出すとともに『Amelia』も購読し始めました。また書類審査で落ちまくるので知り合いの人事担当者に履歴書を見てもらい、何度も書き直しました。翻訳の実績がないので趣味や得意分野、好きな作家や画家、映画監督などを記載し、会社員時代の業務についても詳しい記述を加えました。
また映像にこだわらず、これと思った翻訳勉強会には時間のある限り参加しました。なかでも思い出深いのは、やまねこ翻訳クラブの勉強会とオフです。やまねこは@niftyのフォーラムで児童書翻訳を目指す人たちが集まって結成しました。私は始めから映像の志望でしたが『ドリトル先生航海記』や「ナルニア」シリーズなど、昔から児童書が大好きだったので結成当初に入会しました。やまねこの仲間たちには今でも大いに励まされ、刺激を受けています。
やがて何度も書き直した履歴書を10通ほど出して半年後、1社から連絡が来ました。憧れだった吹替翻訳の初仕事です。翻訳学校を卒業してから5年が経っていました。
個人的に「苦労は買ってでもしろ」「叩けば伸びる」という風潮は大嫌いです。余計な苦労はしないに限りますし、辛辣な言葉で叩くのは発言者の自制心がないか単なる自己満足です。ただし目標に対して実力が足りないなら、自らの意志でガムシャラに取り組むのはアリかもしれません。後悔は少なくて済みます。
映像翻訳者として味わう映画やドラマ、ドキュメンタリーの世界は「やり甲斐」や「夢」といったキラキラ・ワードだけでは語れません。常に課題が見つかり、毎回ふがいなさを感じます。
とはいえ作品への圧倒的な没入感と日本語を捻り出す喜びは格別です。
私にとって映像翻訳は喜びと苦しみの同居する、この世にふたつとない世界。この魅惑の世界に少しでも携われるよう、真摯に作品と向き合いたいと思います。
★『通訳・翻訳ジャーナル』2017年秋号より転載★