最終回 告白

衝撃の最終回

僕はベック。このコラムを書いていた自称ノマド翻訳者44歳の飼い犬だ。彼なら逃亡した。実は、彼は重大な事実を隠していて、もう何も書けなくなってしまったのだ。そんなわけで、代わりに僕がその事実を洗いざらい暴露して、このコラムを終わりにしたいと思う。

実を言うと、彼が毎月のようにノマド旅(PC抱えて仕事しながらの旅)に出ていたのは去年の秋まで。この冬と春は松山へ行った程度でおとなしくしている。なぜ旅に出るのを止めたのか?一つには経済的な事情がある。翻訳業というのは、寝転がっていても勝手にお金がジャンジャンバリバリ入ってくる仕事ではないらしい。彼は「これが世に聞くワーカホリックか」というほど毎日働き、僕がちょっかいを出してもなかなか乗ってこないのだが、それにしてはリッチにはとても見えない。やはり出費がいろいろかさむようだ。家族の扶養に住宅ローン、僕のおやつ代…心配になって預金通帳を覗き見してみたら、思わず吹き出してしまうほど情けない有様だった。

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そりゃあそうだ。あれだけ旅に出ていれば、たとえ移動に青春18きっぷやLCCを使い、安宿に泊まっているとしても、毎月相当な旅費になるはずだ。しかし上の子供が来年には高校へ進学予定ということもあり、さすがの彼も貯金というものを意識し始めた。しかもママさんはパートで働き出した。「奥さんが稼ぎに出てるのに旦那はほっつき歩いてばかり」では、近所に聞こえが悪い。かくして、彼はそうそう旅してばかりもいられなくなったというわけだ。

一旦落ち着いてみると、彼はあることに気付いた。仕事がやけにはかどり、今までできなかった諸事ができるようになったのだ。僕に言わせれば、何を今さらという話だが。やはり自宅と旅先では仕事環境が違い過ぎる。「前倒し納品」なんて以前はあり得なかった芸当までやってのけ始めた。そして書類整理やら事務処理やら、今までそこから目を背けて旅に逃げ出していた雑務とも向き合うようになった。それにより、彼の心の片隅を占めていた「やらなきゃやらなきゃ」という一抹の焦りや気掛かりも一掃できたようだ。そんなわけで、自宅に腰を据えるのも悪くないと彼は思い始めている。
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充電の時

ではマルハ活動(マルチハビテーション、複数拠点で生活するスタイル)はどうかというと、こちらは止めるどころかますますお盛んだ。僕を連れて越後湯沢のリゾートマンションへ頻繁に向かい、忙しくなると隠者のように籠もる。ノマドを絶った今の彼にとって、純粋に仕事という意味での最大の妨害は「家族の団らん」、「アットホーム感」である。僕や子供らが東京の本宅のリビングでワイワイ騒いでいると、仕事から手が離せないはずの彼が引き寄せられるように降りてきて、いつまでも居座る。これではいかんと、彼は忙しい時こそ新潟へ行くことにした。半月ほどマンションに籠もって仕事に集中。そしてメドがつくと本宅に戻り、リビングで心置きなくくつろぐ。

僕らは今も上越の残雪を望む室内にいる。最近は初日に買い物をしたあと車を動かすことはほとんどなく、隣のスキー場へ散歩に出掛ける程度。それ以外は仕事や勉強ばかりしているのが僕としては少々不満だが、イタズラしても東京よりガミガミ言われないのがいい。このマンションは管理費がそれなりに高いので、彼がいつ手放すと言い出さないとも限らない。もっとも、彼自身も書いているように、この地域のリゾートマンションというのは手放そうとしてもそう簡単に売れる代物ではないのだが、ますます売れなくしてやろうと、僕はイタズラに励んでいるのだ。ただ、最近は人が増えたように思う。このコラムのおかげで人気が出ているのだろうか。
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そしてノマドも、このまま止めさせるつもりはない。僕は今年で7歳になる。そろそろ初老だ。足腰が元気なうちに、また車で稚内や知床、鳴門や桂浜を回る旅がしたい。ふらっと寄った青森の山奥にあった湖の透き通る青さ。あんな感動をまた味わいたい。どうも人間というのは、計画し、下調べをしてから旅に出がちだが、それでは旅が単なる確認作業に成り下がりかねない。時間が少し余った。じゃあ計画していなかったけど、あそこへ寄ってみよう。何も期待せずに行くからこその感動。旅の本当の醍醐味はそこにあるのだと、僕は信じて疑わない。

本当の醍醐味を知る彼が、このままノマドを引退するとは思えない。明日伸びんがために今日は縮む。きっとそんなところなんだろう。僕が得意とする英語ではitchy feetと言うが、そろそろ足がむずむずしてきたようだ。旅をしながらも貯金を増やし、仕事をバリバリ片付ける方法を思いついた時、彼はまた何かを書くかもしれない。その日までごきげんよう。

【今回のプロフィール】

村瀬ベック

村瀬ベックプロフィール写真

北海道、東北、北陸から四国まで日本各地を旅してきたビーグル犬。ノマド評論家。好きな言葉は「くうねるあそぶ」、「かわいい犬には旅をさせよ」。