第11回 人称と話法の調整――翻訳で臨場感を演出する

現代文学翻訳コンテスト2017.09.01

5:その他の表現

 その他、ご質問のコメントをいただいたなかで、どういう意味なのか取りづらかったフレーズをいくつか挙げていただいています。

 まずは“it was straight out of a package”です。これは確かに悩みどころで、「パックから出しただけ」と訳せるかと思いきや、あとで野菜や“paste”も出てきますから、サキは一応材料を切って煮てルウを溶かして、という作業をしているので、レトルトを思わせる訳文にするとかみ合わなくなってしまいます。市販のルウを使っただけ、という解釈もできますが、僕の知るかぎり、多くの家庭はカレールウを使って料理するのであって、瓶入りのペーストを使うとか、カレー粉とその他のスパイスを調合して料理するのはかなり少数派だと思いますので(間違っていたらすみません)、市販のルウを使っただけで“horrible cook”とは言い切れないでしょう。作者がカレーライスの作り方をそれほど知らないのでは、という可能性も捨て切れませんが(これまた間違っていたら作者にすみません)、ここは全体の文脈のなかで意訳に頼ることになりそうです。応募していただいた訳も、この箇所についてはいろいろな案が出されています。

 僕も「代物」を使うという案に賛成です。その時点でトオルの内心をある程度まで代弁できる表現でもあり、次に来る具体的な描写へのちょうどいいつなぎになってくれると思います。それに加えて、次の文で野菜にろくに火が通っていないという点ともつながるようにと考えて、「材料を袋から出しただけのような代物だった」としてみました。

 二人が実際に食べている場面で、“Saki had eaten less than a third of her bowl and was poking the vegetables around while Toru tediously worked on his.”という箇所も、いろいろな案を寄せていただきました。がんばって食べようとするトオルと、作っておいて自分はもう諦め気味のサキの対比がユーモラスな一文です。ここではトオルが食べる様子を語るときの“tediously”をどう訳すのかで、意見はさまざまでした。

 どれも場面の雰囲気をうまく伝えている訳文です。原文は、サキの科白が置かれてから、サキの様子→トオルの様子→サキの科白の続き、という順に続いていきますが、日本語の文章としては、トオルの様子→サキの科白、というつながりがやや唐突に見えてしまうため、応募された方の多くが、トオルの様子→サキの様子→サキの科白の続き、という順に変更されていました。僕もそちらのほうが一回り読みやすいと思います。それに加えて、“tediously”をトオル寄りの視点で訳すということを意識して、次のように訳してみました。

 ちなみに、この文については、最後の“worked on his”が何を指しているのかわかりづらかったというコメントもいただいています。これは対になる表現を直前に探す必要があり、“her bowl”を受けての“his bowl”を省略している形です。ですので、トオルは「自分の皿」に取りかかっているという意味になります。

 もう一つ、最後の段落でトオルがあれこれ思いめぐらせるときに出てくる表現で、“Everything that came out of it went back into it.”があり、これが解釈に悩んだという方がたくさんおられました。“it”は前の文に出てくるバッグ(僕は「無地のトートバッグ」としています)を指します。どんな人生を歩んできたとしても、全財産がそのバッグ一つに収まってしまっている、という、サキの人生や生活における喪失感をうかがわせる箇所です。

 ここを意訳することもできるのかもしれませんが、僕は直訳に近い形でいいんじゃないかと思っています。バッグから物が出ては戻っていく、という、サキという人が出てこない文で、彼女が多くのことを失ってきて、ほとんど存在も消えかけているということが伝わると思うからです。したがって、構文もさしていじらずに、「そこから出たものはすべて、そのなかに戻っていく」などとして、ちょっと読み手に立ち止まってもらってイメージを頭に描いてもらう、という方針で訳してみました。翻訳が親切に解説しようとするよりも、そのほうが伝わるものが多いという表現ではないかと思います。

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