第10回 冗長さと簡潔さ、語りの出し入れを調整する

現代文学翻訳コンテスト2017.08.01

第10回課題文 発表

 続いて次回の課題文です。今年も日本の夏の暑さに苦しめられ、同じ設定の物語はないものかとしばらく探していたところ、偶然見つかりましたので、そこから選びたいと思います。作者はユウコ・サカタ(Yuko Sakata)という日本人の名前を持つ作家です。とはいえ彼女自身はニューヨーク生まれのアメリカ人で、子供時代は香港と東京でも過ごしたことがあるという経歴の持ち主です。日本を近いと同時に遠いとも感じるがゆえに作品の舞台に何度も選んでいる、と語る彼女の新作短編の一つが、“On This Side”という作品です。

 物語は、トオル(Toru)という二十代後半の男性のアパートを中心に進行していきます。夏の暑さのなか、自動販売機の商品補充の仕事を終えてアパートに戻ってきたトオルは、階段のところに同年代の女性が座っているのを目にします。誰だろう、と思っていると、彼女のほうは「トオルくん」と声をかけてきます。どこか見覚えがあるような……と考えたトオルがふと思い出したのが、中学校時代の同級生「マサト」でした。トランスジェンダーの男子生徒だったマサトは、「サキ」という女性となってトオルを訪ねてきたのです。

 ちょっと人間関係でまずいことになってしまったから、しばらく泊めてほしい、というのが、十数年ぶりに再会したサキの事情でした。戸惑うトオルですが、彼には冷たくあしらえない事情があります。サキが交際相手の男性に腹部を刺されて退院してきたばかりだということ、それに加えて、彼女が「マサト」だった中学校時代にいじめられて飛び降り自殺を図った事件に、トオルは罪悪感を覚える事情があるからです(それが物語で少しずつ明らかにされます)。こうして、ワンルームでエアコンもないアパートでの二人暮らしが始まります。

 今回の課題文は、そんな二人の生活が始まったばかりのころを描写する、作品の冒頭に近い箇所です。

課題文

  Saki was a horrible cook. When Toru came home the next day, she had prepared some curry, but it was straight out of a package. The vegetables were undercooked, the onion still tangy. She had added too little water, and the paste was not evenly dissolved. The rice was dry, even though she had used the same rice cooker Toru used every day. He was baffled that anyone could mess up the simplest of dishes.
  “You shouldn’t worry about the cooking,” Toru said, eating out of politeness and dripping with sweat. “You’re — a guest, I suppose.”
  “Oh, it’s no trouble.” Saki had eaten less than a third of her bowl and was poking the vegetables around while Toru tediously worked on his. “It’s the least I can do.”
  “No, really,” Toru said. “Look, I’ll prepare something simple after I come home. Okay?”
  “Okay,” Saki said. “If you insist.”
  Saki hadn’t left the apartment all day. When Toru asked, she said she had mostly slept, read some, and listened to the radio. She then added, brightly, “You can’t imagine how much I appreciate this. This is exactly what I needed.”
  The night before, he had conceded his thin futon to Saki and slept on top of his old sleeping bag. He couldn’t bring himself to kick her out. Whatever sort of life Saki had lived since Toru had last known her he didn’t feel inclined to imagine, but he couldn’t help suspecting he’d had a hand in it. That life now all seemed to fit into her plain canvas bag. Everything that came out of it went back into it. If he were to pick up the bag and take it out like the trash, there would no trace of her left behind.

 夏といえばカレーですが、ここまで失敗している料理の描写もなかなかありません。そんなユーモラスな場面にも、過去の暗い影はつきまといます。日本での二人のやりとりに、英語らしい言い回しも多く登場しますが、さてどう訳したものでしょうか。たくさんのご応募をお待ちしています。

 

現代文学翻訳コンテスト バックナンバー

第1回 翻訳とは嘔吐である

第2回 原文の語順をどこまで尊重するか

第3回 「目」の語りと「耳」の語り

第4回 現在形で書かれた原文を訳すには

第5回 比喩・仕草・会話の訳し方

第6回 父親がバッハのメロディに乗せて歌った歌詞を訳す

第7回 いかにもアメリカ的なスモールタウンの風景を訳す

第8回 軍事用語の比喩で表現された子どもの世界を訳す

第9回 イメージとテーマを訳語にどう反映させるか

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