読まれないマニュアル 自分が日本語にしたい

リレーエッセイ2015.03.17

今から25年前、大学の理工学部を卒業後、技術職として入社した電機メーカーで、当時はやっていたサン・マイクロシステムズ社の「ワークステーション」を使ってプログラミングをすることになった。プログラミング言語の習得もさることながら、UNIXを覚えないことにはエディタを開くことさえできない。あせってマニュアルの棚に向かうと、厚さ10センチはありそうなバインダーがずらりと並んでいる。圧倒されると同時に、違和感を覚える。どれも新品同様の状態なのである。部署内にはたくさんのワークステーションがあるのになぜ、と一冊を手に取ってみると、中身がすべて英語だった。「これでは誰も読む気がしないか」と納得してから、はたとひらめいた。「これを訳す人がいないのなら、私にできないだろうか。マニュアルが日本語なら、もっとたくさんの人が活用できるのではないだろうか」と。

帰国子女だったこともあり、英語にはいくらか自信があった。また、大学では落ちこぼれだったので、技術者としてやっていくことに不安も感じていた。

さっそく、翻訳雑誌や英字新聞で細々と情報収集を始める。すると、「産業翻訳」という分野があるのはわかった。でも、自分がやりたいこととは少し違うようだった。ほかに手がかりが得られないまま、日々の業務に忙殺され、あきらめかけた頃、まさにサン社のドキュメントを扱う翻訳会社の求人広告が目に留まる。応募したところ、ワークステーションの経験が買われたのか、運よく採用が決まった。

社内翻訳者として
さまざまな経験を

入社してから、翻訳が、一次訳、レビューと、何人もの手にかかり、複数の手順を踏んで完成することを知る。未経験者の私は、最初はチェック作業をしながら先輩の訳文から学び、徐々に翻訳も任せられるようになっていった。

ドキュメント全体を一定のレベルに仕上げる難しさ。ある一文に特別に「うまい」訳を思いついても、それ以外の箇所が「普通」なら、文章全体で見たときにムラが目につくことになる。また、英語力だけではどうにもならないことも思い知る。最初に思い描いていたほど「自分の能力を生かせる」仕事ではなかった。それでも、英語のドキュメントを日本の読者に届ける作業の一端にでもかかわれることに喜びを感じた。

その後、ウィンドウズ95が台頭し、ウィンドウズ向けアプリケーションも含め、関連ドキュメントの翻訳が増えていく。各社独自の翻訳支援ツールが支給され、プロジェクトによって使い分けた。覚えることが多く、忙しさは増したが、仕事の幅は広がっていった。

仕事に慣れた頃、力試しのつもりで受けた他社のトライアルに合格。週末だけでできる小さな仕事を受けているうちに、独立してもやっていけそうな気がしてきた。社内翻訳者としての立場に不満があったわけではないが、時間が自由になると楽だろうな、という程度の軽い気持ちで、結局、会社は一年半で退職した。

独立から20年
技術は日進月歩

こうして始まったフリーランス生活。当初、依頼を受けるのは、マニュアルやヘルプが多く、社内翻訳者として培った知識・経験だけで、あるいはそれをもとに少し勘を働かせばできる仕事ばかりだった。いつからか、こうして始まったフリーランス生活。当初、依頼を受けるのは、マニュアルやヘルプが多く、社内翻訳者として培った知識・経験だけで、あるいはそれをもとに少し勘を働かせばできる仕事ばかりだった。いつからか、ホームページなど、少し苦手なマーケティングの要素を含む案件が増え、日本語の表現に苦心するようになった。かといって、専門的な技術文書のほうが得意というわけでもなく、日進月歩の技術分野の知識に四苦八苦することも多い。中途半端な立ち位置のまま、独立してからもうすぐ20年を迎える。

独立前にもう少し社会経験を積んでおけば、専門分野として翻訳の仕事に生かせたかも…などと昔を振り返ることもある。とはいえ、育児中の現在、子どものそばにいられるのは、在宅で仕事ができているおかげである。仕事と家庭のバランスには常に悩まされているが、取引先の理解に恵まれ、ありがたいことに途切れない案件を前にパソコンに向かう日々が続く。

★『通訳・翻訳ジャーナル』2015年春号掲載★