翻訳・通訳の限りないポシビリティー

リレーエッセイ2014.09.17

20 年以上、米国、日本、ヨーロッパで翻訳業界を経験してきたが、今現在は英語教師をしており、翻訳者でも通訳者でもない。だが幼少期以来、ほとんど英語圏で育った私にとって、言語に縛られることなく、自分をどう表現するかというのは子供時代からの日課であり、フランス語しか話せない主人とフランスに永住する今となっては、人生の課題でもある。

日本人として

幼稚園の頃から父の転勤に伴って英語圏を転々とした。小学生の時にNYに引っ越すまで、他の日本人を見ることすらなかった。順応の積み重ねばかりだったせいか、ボストンの大学への願書は「国際的背景の強い子供への教育体制」というテーマだった。

母国として育ったアメリカで、大学を卒業後にビザが必要になるなんて考えたこともなかった。とにかく国外追放にならないように、その当時は特に興味もなかった、翻訳も含めた日本語サービスを提供するボストンの会社に就職することになった。大学で専攻した数学も棒に振る、切羽詰った就職選択だった。

アメリカの感性で

ところが、いざ始めてみると翻訳業は幅が広い。翻訳・通訳の基本はコミュニケーションで、必要性は社会のあらゆる面で発生するからだ。翻訳の仕事を通してさまざまな経験をした。

例えばテレビ字幕翻訳の文字数揃えの時は、テレビ視聴が仕事のような日々を過ごした。絵本の翻訳出版の交渉をしたこともある。ビデオの吹替翻訳の校正の時には、声優に抜擢されてスタジオ入りをした。またある時は、ハイテク文書のDTP翻訳プロジェクト管理に携わり、最後は二晩連続徹夜をした。また翻訳だけではなく、通訳も行ったが、ビジネス会議通訳の際には、クライアントのお土産選びでTIFFANYのネックレスを数万ドル分試着したこともある。

とにかく何が出るかわからない。お菓子のおまけのようだ。語学力だけでなく、順応性とわかり合うことを目指す姿勢が大事だった。

80年代末というとDTPの幕開けだ。翻訳が苦手だった私は邦訳を製品化まで見届けるArt Directorの役に就いた。まだソフトが日本語には最低限にしか対応していない時代だ。日本語を米国機器で工夫して出力するためにグラフィック・印刷業の技術を習い、英語ソフトを日本語化するニーズに応えてエンジニアとしての簡単な知識まで身につけた。ゆくゆく「ローカリゼーション」と名がつく新分野だったので、日米関係者が一丸となって相互理解を目指した。翻訳の対象はlanguageでなく、communication choicesであることがよくわかる。そんな中、大学院の国際教育部に奨学金つきで入ったが、再度ビザの問題であきらめた。

フランスで伝える

90年代の終わり、長年の経験を買われて、米ローカリゼーション会社の在仏欧州本部にコンサルタントとして転勤になった。フランス語は知らなかったが、「面白そうだし、10カ国語以上の翻訳を同時進行なんてどんなだろう」と思っていた。しかし、着いて愕然とした。国によっては勤務習慣が大きく違う。サービス概念も順応速度も、臨機応変が鍵である日米企業には通用しないことが多かった。「一体どうなってるんですか」という質問を、聞いて聞かれる毎日だった。なぜわかり合う姿勢がないのだろう。激しいカルチャーショックだった。コンピュータによる自動化が進むにつれ質より量と速さの傾向が強まり、意義あるコミュニケーションへの努力がどんどん消えていくのも悲しかった。10年後ついに業界を去ることにした。

ところが2010年、主人が重病で身体障害者になってしまった。小さい娘を抱え、主人を看病しながら生活をするには翻訳業にフリーで戻るしかないと考えていたところ、昔からの教育の虫が騒ぎ始めた。翻訳業界で習った知識を生かしてフランスで英語の先生でもしてみようか。フランス以外の国のことを教えてあげようか。

〝教えてあげるから教えてよ。わかり合おうよ〟。小さい時からそればかりを望んで来たような気がする。

2014年3月、主人が移植手術対象に選択され、あきらめていた社会復帰ができる可能性が出てきた。さあ、また順応だ。

★『通訳・翻訳ジャーナル』2014年秋号掲載★