第12回(最終回) 壁を乗り越え、また繰り返す

通訳者のメンタルトレーニング2016.12.14

小さな壁は日常茶飯事

通訳という仕事は苦しみの連続。いい感じかな、と少し調子に乗り始めたらすぐに難しいジョークや聖書の1節が飛んできます。最後まで完全に納得できるパフォーマンスができた、と胸を張って言えることが年に1回あれば良い方です。ではそんな辛い仕事をなぜ続けるのでしょうか。もちろん生活のため、おカネのためでもあります。しかしそれとは別に、感謝された時の喜びがとても快感だからというのもあるでしょう。一定の技術がある通訳者は比較的良い収入を得ているので、マズローの段階欲求説に基づいて説明すれば、それより上の段階、つまり自我・尊厳の欲求、そして自己実現の欲求を仕事を通して満たそうとするのだと思います。たとえば私自身も案件単位でみると、高額の仕事もあれば、その半額のオファーもあります。収入だけを考えれば高いレートの仕事だけを受けて最適化すればよいのでしょうが、そうしないのはやはりさまざまな分野の仕事をすることで楽しみたい、成長したい、“自己実現”を図りたい、という欲求があるのだと思います。

人生は小さな課題の繰り返しです。通訳も同じで、小さな壁は日常茶飯事。さまざまな分野の仕事をしていると、必ずどこかで痛い目にあいます。メンタルを削られながらも、それを受け止めて乗り越えいかなければなりません。大事なのは、壁とどう向き合っていくか。また同じような壁が現れたときに、乗り越える準備がきちんとできているか。この準備ですが、物理的にも心理的にもできることはかなりあると思います。

現状維持は衰退の始まり

1960年代にマックスウェル・マルツという形成外科医がサイコサイバネティクス理論を発表しました。マルツのクリニックで整形した女性の中には、どれだけ「美しく」なっても満足しない人もいれば、第三者が見たらほとんど気づかないようなプチ整形でも満足してそれ以降は幸せな人生を送る人もいました。結局は何を成功とするかは解釈の問題で、成功のイメージさえ持ち続ければ必ずそこに到達できるとマルツは主張したのです。サイコサイバネティクス理論と聞くとターミネーターがガトリング砲をぶっ放すイメージを想起するかもしれませんが、要は「自分にとっての成功とはなにかを定義して、それに向かって進み続けなさい」ということです。単なる「頑張ります」で終わらせては進歩がないですし、現状維持は衰退の始まりであることが多いです。

私の場合は、まだ駆け出しの通訳者の頃ですが、日英方向に比べて英日がかなり弱かったので、とにかく日本語能力を強化したかった(本来であればこれをもっと定量的に定義したいのですが、言葉の場合はそれが難しい)。これを実現するために「1年で日本語の本を300冊以上読む」という目標を設定しました。難しい専門書も、ジャンクな新書も、なんでもありです。これに加えて、四文字熟語やことわざに対訳をつけて、その紙をラミネート加工してシャワー室の壁に貼ったりもしました。毎日目にすれば嫌でも覚えるだろうという安易な考えでしたが、結構覚えました(笑)。吉本隆明の講演録CDも借りて毎日聴いていました。

現在の目標設定は方法からしてまったく異なります。たとえば新しい分野を開拓したい場合は、収入目標を犠牲にしてもこの分野の仕事を半年で50件受けるなどという設定のしかたで、どちらかというと案件の質を中心に、自分が楽しいと感じる案件や、レベルアップできる案件を優先的に選んでいます。

評価の軸は自分に置く

ブースに入ってパートナーの訳を聞いていると、だいたい自分より上手く聞こえるものです。隣の芝生は常に青い。それに比べて自分のパフォーマンスのひどいこと……と感じることもあるでしょう。私もありました。けれど今は他者との評価ではなく、過去の自分との比較で自己評価を行っており、これにより自分の実力を以前よりも客観的に評価できるようになり、やる気もアップしました。世の中には上手い人がいる。上手いところは素直に勉強させてもらう。私は昨日の自分より少しだけでもいいから上手くなることだけを意識する、それだけでいいのです。実際、アメリカの心理学者J・S・ブルーナーは評価の軸を自分におくことでモチベーションを上げられると指摘しています。

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