第1回 翻訳とは嘔吐である

現代文学翻訳コンテスト2016.11.01
編集部より:今月から新しい翻訳コンテストが始まります。米文学者であり、現代アメリカ文学の翻訳も手がけている藤井光さんが、未邦訳の現代文学を取り上げ、その一部を課題文として、読者のみなさんから訳文を募集します。月1回の更新予定です。

みなさんはじめまして。今月からこのコーナーを担当する藤井光と申します。僕は日頃は大学で教えるかたわら、アメリカ文学の翻訳に取り組んでいます。しばらくおつきあい下さいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

いきなり「嘔吐」というタイトルなんかを掲げてしまい恐縮ですが、これにはちゃんとしたわけがありまして……。

翻訳の目指すところは、翻訳者が「自分を消す」、あるいは「黒子に徹する」ことだと言われているのは、みなさんもどこかで耳にしているかと思います。

ですが、自分を消すには超絶的な技量が必要です。特に文芸翻訳の場合は、外国語で書かれた小説の文体を、翻訳者の存在を感じさせず、そのまま日本語でも語っているかのように読ませるというのは、ごく限られた人にのみできる芸当です。

僕はまだ翻訳を始めて十年弱という若手なので(年齢的にはもう中年なんですが)、当然ながらその域には達していません。まあ、自分の力量からして、到達できるとも思っていませんが。僕にとって翻訳は、ふむふむと原書を読み、しばし黙想したのちに流麗な訳文が書きつけられる、なんていう世界ではありません。

むしろ、翻訳とは、外国語を飲み込んで日本語を吐き出して、さあどうすればまともな文章にできるのかと頭を抱えるという作業です。黒子に徹するなんて夢のまた夢です

そんなわけで、道を究めた人が、翻訳のコツを指南する、というなんてことはしません。むしろ、今回は僕が日ごろ、「これってどう訳せばいいんだろう」と頭を悩ませているポイントを、みなさんと相談するような形で進めていければと思います。というわけで、僕も恥をかく気満々で訳文を吐き出しますので、みなさんもどしどし吐いてください。

 

第1回課題文 発表

さて第1回の課題ですが、あまり嘔吐のことばかり書いていても気分が晴れませんので、心機一転、猫の話にしましょう。作品名は“What the Cat Said”、これを書いた人はアメリカ人作家のカレン・E・ベンダーで、彼女の短編集Refund (2015)の最後を飾る掌編です。

Refund

Refund, Karen E. Bender

ベンダーと聞いてピンと来た人もいるかもしれませんが、同じく作家のエイミー・ベンダー(最新作『レモンケーキの独特なさびしさ』など)とカレン・E・ベンダーは姉妹です。といっても、エイミーは非現実的な設定を得意とするのに対し、カレンはもっとリアリスティックな作品を志向しているという違いはあります。

そんなカレンの作風にしては珍しく、“What the Cat Said”は現実をふっと飛び越える設定が面白味を醸し出しています。

舞台となる土地と時代は明かされませんが、21世紀のアメリカ某所で、主人公の女性は夫と二人の子どもと暮らしている家が舞台です。とくに裕福でも貧しくもない、中流家庭といった雰囲気です。

その日、息子は友達の家に誘われるも約束をキャンセルされて、おもちゃを飼い猫に壊された妹ともども、夜に家を出て行こうとしますが挫折します(荷造りで入れるのが、宝物にしているデレク・ジーターのサイン入りベースボールカードというのがなんとも微笑ましい)。

ささやかな喜怒哀楽やわがままを目の当たりにして、主人公の女性は寝付けないまま、二人の子どもの将来に思いを馳せつつ、夫とのちょっとしたすれ違いに悩んでいます。よくある光景だと言えるでしょうか。すると突然、部屋にいた猫が一言だけ喋るのです。“I love you”と。

猫が喋った? その一言は、どんな思いで、誰に対して発せられたのか? その一瞬の非現実性が、夫婦や家族をめぐる現実を照らし出す、そんな物語になっています。

ベンダーの作品は、一家のドラマを順番に追うのではなく、中心となる「猫が喋った」という出来事からスタートして、徐々にその背景が明かされていく構成になっています。その冒頭の部分が、今回の課題です。英語らしい書き方満載で、なかなか難しそうですが、ふるってご嘔吐おうぼください。

 

課題文

  It was two in the morning when the cat spoke. It was raining again, great pale thunderclouds moving like ships through the sky. The bedroom flashed with white light. The children, earlier that evening, had tried, for the first time, to run away.
  Now the cat was pacing the room. He was full of anguish. We were all trying to sleep. That was, in itself, a joke. No one slept very deeply, ever. Our boy was up the most. “My blanket fell off,” he said. “It’s hot.” He stood by the bed. “I need only to find my Yankee card.” He paused. “Now.”
  He did not want to leave the day even after it had left him. It was a touching sentiment, though, for us, tiring. It was the gray hour of the morning when nothing seemed alive, the hazy moment before the march through our lives started again, before the sun was up and the dreary race continued, to eat, to be educated, to fill the wallet.
    “I love you,” the cat said.
  The words sounded almost choked, as though the cat had been holding this in a long time.
  I thought my husband had said it, or our son. The cat looked at me. The room whitened with lightning, then went black again.