第8回 予定調和はないと考える

通訳者のメンタルトレーニング2016.06.27

資料がなくても切り抜けるべき?!

もともと沖縄で活動していた私が東京に拠点を移して一番驚いたのが、資料を提供しないクライアントに抗議する通訳者がいることでした。程度はあるにせよ、クライアントの前で明らかに不満げな様子を見せる通訳者もいました。通訳者も人間ですから、人前で恥をかきたくはありません。報酬を頂いている仕事であればなおさらです。ただ、クライアントに現場で文句を言うのはプロの振る舞いとしてどうかと思いますし、そもそも通訳者が高い報酬を得られるのは常人にはない特殊なスキルを持っているからであり、それには予想外の状況におかれても強いメンタルで切り抜ける能力も含まれていると私は考えます。文句があるなら案件終了後に是正を図るか、もうこのクライアントと仕事はしない、と決めればよいだけのことです。

そもそも予定調和に終始する現場のなにがおもしろいのでしょうか。そんな現場が続けば成長は止まり、緩やかに、しかし確実に、技術はさび付いていくことでしょう。私は昔、法廷通訳人として刑事裁判を数多くこなしていましたが、ある時を境にぱたりとやめてしまいました。予定調和的な展開が多く、仕事に緊張感をあまり感じなくなったからです。本当のプロであればどんな仕事であれ一定の緊張感をもって臨むことができるのでしょうが、私にはそれができませんでした。私のプロとしての限界かもしれません。いずれにせよ、大きなミスは気が緩んで油断したときに発生すると相場が決まっています。裁判所にはとても頼りにされていたのですが(地方では通訳者が不足している)、迷惑をかける前に潔く身を引く決心をしました。

状況を受け入れる

海洋冒険家の白石康次郎はヨットを操縦する際、風を読みながら次の進路を決断しているそうです。もちろん現代のヨットにはGPSがありますし、欲しければ気候や進路などの情報にアクセスできるのですが、白石は自分の勘が冴えていると感じるときは、自分の勘を信じて進路を決めるのだそうです。通訳者も現場によっては大波に進路を見失いそうになることがありますが、それでも「予定調和はない」と最初から受け入れてどっしりした態度で臨めば、心に余裕が生まれて通訳のキレも増すことでしょう。あまりにもシンプルな心構えですが、実はこれ、つまり「今の、この状況を素直にありのまま受け入れる」ことが一番大事なのです。

私はむしろ、羅針盤がきかない環境で未来を切り拓く方が好きです。スクリプトがないパネルディスカッションやQ&Aは通訳者に嫌がられる傾向があるように思いますが、私はむしろそういうものを通訳したい。そこには筋書きが無い人間の本性が現れるものですし、それが見えるからこそ通訳は“おもしろい”と思うのです。

緊張時の対処法は?

状況をありのままに受け入れろと言われても、どうしても緊張してしまう、こればかりはどうにもならないと思う通訳者もいるでしょう。確かにそうです。ただ、緊張は悪いものではありません。大事なのは緊張度を適度に保つこと。つまり緊張感が不足してもいてもダメですし(油断して大きなミスをしやすい)、緊張しすぎるのも問題です(集中力を効率よく維持できない)。女優の宮沢りえは、ベテランになった今でも、自分の出番がくる直前に舞台袖で震えていることが共演者に目撃されています。「あ~、私、今日死んじゃうかも~」などと弱気なことを言うらしいですが、一度観客の前に立つと人が変わってしまう。実はこのエピソードを聞いてから、私も現場が始まる前にブース内で弱音を吐いてもいいのだなと安心しました(笑)。

緊張しすぎたときの対処法は色々あって、結果も個人差があるのですが、私が効果があると感じたのは以下の2点です。

1・腹式呼吸
大事な案件の前や、マシンガントークの講演者にコテンパンにやられた時は自分の休憩中にですが、私は背筋を伸ばして鼻からゆっくり息を吸い込みます。お腹、特にへその付近に空気を注入していくイメージです。その後に口からゆっくり息を吐き出します。息をできるだけ長く吐き出しながら腹筋を締めるのです。吸うときよりも時間をかけてゆっくり吐くことを意識してください。
2.結果を意識しない
通訳現場はサプライズの連続です。きちんと準備してもうまく訳せない表現はあるし、たまたま昨日テレビで観たから運よく訳せる表現もあります。ですから通訳者は“訳せないサプライズ”について必要以上に悩むべきではありません。失敗するかもしれない、などと結果を意識するのではなく、次の15分の内容をいかに完璧にこなすか、これだけを考えればよいのです。

具体例ですが、案件によってはイベント前夜、それも午後11時近くになって資料が届く場合があります。この時間でも、心配で朝の3時まで読む通訳者が結構いると聞きます。私は睡眠時間を犠牲にすると良いことはないと信じているのでしっかり寝て、翌日少し早めに起きて午前中の資料だけ集中的に読みます。午後の内容については昼食時に読めばいい、と割り切っています。当日は発表等の流れを読みながらさらに細かく時間配分をしてリアルタイムで準備を進めますが、いずれにしても大事なのは「結果を考えずに目の前の仕事にだけ集中する」ことです。目の前の15分、と言ってもいいかもしれません。

人間の感覚は集中するとただでさえ選択的になるので、もっとリラックスして心に余裕を持たないと通訳もうまくなりませんよ!

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