第100回(最終回) この連載で伝えたかったこと

コメント

1.
しかし人生には、時として上記のどの範疇にも属さないような人間が現れることがある。これは、何年にもわたって不定期に、多くは危機的場面の最中に、ベランダから登場する道化者のことだ。映画では、このような人物は、場面転換の際の脇役にすぎないような、取るに足りない者と見なされる。もちろん映画に登場する訳が、脚本家の仕業だということは百も承知である。けれども、人生に「脚本家」は存在するのだろうか。
<コメント>小説ですから「上記」は違和感がありますね。「こうした」とか。その次の行は非常に翻訳っぽい感じがします。ベランダはdeckの読み間違いですね。このジョーカーは文字通りジョーカーです。脇役とか端役はその前の文章で説明されていますね。2番目の脚本家は鉤括弧でくくる必要があったかな?

2.
ところが、こういったカテゴリーのどれにも当てはまらない人物が人生に入り込んでくることがある。トランプの束から突如現れるジョーカーのことだ。長年にわたって思いがけないタイミングで顔を出し、重大な局面にいる間も登場することが多い。映画では、この手のキャラクターは五番目の男(訳注:ヒーローでもヒロインでもなく、親友でも悪党でもないが、気づきや結末をもたらすのに欠かせない役割を果たす人物)、あるいは変化の担い手として知られている。映画で彼らが現れる場合は、脚本家が配置したからそこにいるのだとわかる。だが、私たちの人生の脚本を書いているのは一体誰なのか?
<コメント>1行目はいいかな。デッキは「トランプの束」なんですけど、「束」がちょっとじゃまかも。「長年に渡って」はもう一工夫あってもいいかな。「重大な局面にいる間」は「誰が」なのかがちょっとわかりにくいかも。訳注は一つの処理の仕方で、これでもいいと思いますが、もう少しシンプルにしたいところ。脚注をことさら読みたい人はいないので。
<余談>4年間はけっこう長かったですね。おつきあいありがとうございました。またどこかで。

3.
ところが、彼らのような端役ではない人物が、ひょっこり現れることがある。この手の人物はトランプのジョーカーだ。何年も経ってから、おかしな間合いで束の中からひょいと出てくる。しかも多くの場合、最悪なタイミングで。映画の中では、このような人物は「五番目の男」、あるいは「変化をおこす役」として知られている。映画だと、このような人物が登場すると、脚本家の意図で投入されたのだと分かる。では、我々の人生の脚本は、誰が書いているのか。
<コメント>端役に限っちゃってはだめかな。この訳し方なら「いわば」を入れてもいいかもしれません。at odd intervalsは、おかしな間合いとはちょっと違うかな。最悪まではいかないと思います。映画が繰り返されてしまうのはちょっと避けたいかな。後半はいい感じでした。
<余談>はい、お別れです。選んだ本を読んでもらったとのことでありがとうございます。本探しに書店を彷徨ったかいがあるというものです。またどこかでお会いしましょう。

4.
だが時にはこういったカテゴリーに当てはまらない人間と人生で関わり合いになる。こいつは数年に一度妙な間隔でトランプのデッキから突然現れるジョーカーで、それもたいてい危機の瞬間にだ。映画ではこの種のキャラクターは、五番目のモノ、変革推進者として知られる。映画で登場したのがわかるのは、脚本家がしかるべき位置に配置しているからだ。しかし我々の人生の脚本を、誰が書いているかわかるものだろうか?
<コメント>「こいつ」といった表現は短い文章では使えますが、長編ではきついです。at odd intervalsは上述。「にだ」は少し読みにくいかな。「五番目のモノ」はそのままではわからないと思います。工夫してみてください。「わかるものだろうか」は「わかるだろうか」くらいでも済むかな。
<余談>原文は読みやすいんですが、日本語でも同じようにページターナーに訳し上げるのは非常に難しいんですね。愉しみにしていただいたとのことで感謝します。

5.
しかし、時として、人生にはこうしたカテゴリーのどれにも当てはまらない人物が登場してくる。それは、何年かごとに、しかも往々にしてピンチの時、不意にトランプの山から飛び出してくるジョーカーのような存在である。映画の世界では、この種のキャラクターは第五の役柄、すなわち変化を起こす者として知られている。映画であれば、こうした人物が現れるのは脚本家が登場させたからだとわかる。だが、自分の人生の場合、脚本を書くのはいったい誰なのだろう。
<コメント>「何年かごと」とすると「数年ごとに」と取られてしまいそうです。「トランプの山」はいいですね。その次の行はうまく処理したと思います。

6.
しかしこのカテゴリーのどれにもあてはまらない人物と遭遇することがある。それはジョーカーであり、人生のなかで気まぐれなタイミング、特にピンチのときにカードの山から飛び出してくる。映画だとこの手の登場人物は「五番目の男」または「チェンジ・エージェント」と呼ばれる。映画で奴が登場するのは、脚本家がそこで登場するように書いたからにほかならない。では、我らが人生の脚本家は誰か。
<コメント>全体的にさらっとまとめてあって良いと思いますが「奴」が気になるなあ。「映画に登場すれば、脚本家がそこに配置したからだと分かる」とか。
<余談>どうもありがとうございます。またいつかどこかで。

7.
しかし、これらのどの部門にもあてはまらない人物が自分の人生に加わることがある。この人物は数年に不定期の間隔で、1組のトランプから出てくるジョーカー(予期せぬ影響を持つ人)で、重大な岐路に立った時に現れることがよくある。映画では、特徴はないが、変化をもたらす人物としてこういった役柄は知られている。この役は映画に登場しても、脚本家がそう執筆したのでその人物がいるのだとわかる。だが、誰が我々の人生の脚本を書いているというのだ。
<コメント>「人生に加わる」よりは「登場する」とか。不定期なんですが、数年だとかなり頻繁に登場しますよね、人生80年と考えても。「数年に」はこの文脈では短いという気がします。overはいつからいつまでみたいな区切りの機能がないんですね。「1組のトランプから出てくる」はちょっと説明的すぎますね。「書いているというのだ」は少し否定的に響くので、「書いているのだろう」くらいで良いかと。

8.
だが、こうしたカテゴリーに収まらない人物が登場することもある。この人物は、トランプの束からひょっこり顔を出すジョーカーのように、思いがけないタイミングで現れる。私たちが人生の岐路に立っているときであることも多い。映画の世界では、この手のキャラクターを「五番目の人物」または「チェンジ・エージェント」と呼ぶ。画面に登場すると、脚本家が意図的にその場にもってきたのだな、とこちらもピンとくる。しかし、私たちの人生の脚本は誰が書いているのだろう? 運命なのだろうか、ただの偶然なのだろうか。
<コメント>うまくまとめていると思います。
<余談>結局訳した量だけうまくなるので、努力を重ねていくしかないです。またいつかどこかでお会いしましょう。

9.
しかし、こういった範疇には当てはまらない人物が人生に現れることがある。ずっと出てこなかったのにおかしなタイミングでトランプからひょっこりジョーカーが出てくるようなもので、しかも危機の時に限ってばかりだ。映画ではこういった類のキャラクターは第五の役や、転換役ということになっている。映画でそういった人物が現れれば、脚本家が置いたからだなと分かる。しかし私たちの生活の脚本を書いているのは誰なのだ?
<コメント>「ずっと出てこなかったのに」は少しやり過ぎ。「限ってばかり」ではないです。それだと「always」になってしまいますね。その次の行はもう一工夫。「誰なのだろうか」の方がいいかな。
<余談>老兵は死なず、ただ消えゆくのみです(笑)

10.
しかし、どの種類にもあてはまらない人物があなたの人生に登場することもある。トランプの束から抜け出たジョーカーが、長い年月にわたって、思いがけない時に何度もひょっこりと現れる。しかも、たいていは万事休すという場面にだ。映画では、この手の人物は、五番目の男、あるいはストーリー展開役と呼ばれる。そうした男が映画に登場しても、それは脚本家がそのように書いているからだと納得できる。だが、私たちの人生に脚本などあるだろうか?
<コメント>2行目はちょっとわかりにくいかな。「ジョーカーのようなもので」とか処理すればいいかな。「万事休す」は「すべてが終りである。もう何とも施すべき方法がない。」なので、そこまではいっていません。「ストーリー展開役」は少し説明的かな。「男」とは限らないのでもう一工夫。「人物」とか。最後の方はいいですね。
<余談>人生一期一会です。どうもありがとうございました。

11.
しかし時には、こうしたカテゴリーのどれにも当てはまらない人間が、人生の中に入り込んでくることがある。ジョーカーってやつだ。勝手なタイミングで、それも危機に陥っている時なんかにひょっこりと現れる。そんなことが何年も続いたりする。映画でなら、第五の役柄(ルビ/フィフス・ビジネス)とか、かき回し役(ルビ/チェンジ・エージェント)とか呼ばれる類だ。そいつが映画の中に出てくるのは、脚本家が登場させたからだってことは分かる。それならばだ、俺たちの人生の脚本を書いているのはいったいどこのだれなんだ?
<コメント>「の中に」はいらないかな。「ってやつだ」は少し荒っぽいかも。「というやつだ」とか。over yearsは長年の間にそういうことがあるということですね。at odd intervalsは成句。「かき回し」はちょっと違うかなあ。ルビを使うのは良いと思います。「それならばだ、」は少し口語的すぎるかな。「だとすれば」とか。
<余談>をを、それはよかったですね。滑走路はアウトですが、全体のまとまりとして相対的に良かったのでMVPになったということです。精進してください。BABYMETAL、横浜アリーナで見てきました。すごかったです。Moa-metalがかわゆくてw 今度はセカンド・アルバム(既に予約済)、ウェンブリーに続いての北米ツアー(既に東海岸で8カ所確定、西海岸も回るようです)、そしてツアーのラストは東京ドームだそうです(行きますよ)。本当に女子高生3人が日本のアーティストが望んでもかなわなかった世界征服を達成するかも知れないという期待が出てきました。レディングで数万集めただけでももう僕のような昔からロックを聞いている人間には夢のようなんですが。これがターニングポイントだったんですね。

12.
しかし、こういったタイプとは違う人物が生活に飛び込んで来ることがある。その人は何年にも渡って不規則に現れるジョーカーであり、それも往々にして、難局に立たされた時に姿を見せるのだ。映画の場合そういうキャラクターは、取り柄のない人物または話のキーパーソンとして認識されている。脚本家が物語に盛り込むためその人物は登場する。だが我々の人生の脚本は誰が書いているのか。
<コメント>deckはきちんと訳出しましょう。「取り柄のない人物」は明らかに意味がちがってしまっていますね。わからなくても文脈から類推するようにしてください(こんなのを読んでみるといいです)。後半はうまくまとめましたね。
<余談>粘るようにしてくださいね。

13.
だが時折、この分類のいずれにも当てはまらない人物が人生には現れる。何年も出てこないと思っていても突然トランプから飛び出してくるジョーカーだ。大抵はクライシスが訪れている時に現れる。映画では、こういうキャラクターは、五番目の男とか使者として知られている。映画を見ていてこのキャラクターが現れると、脚本家が入れたと判っているから、出てきたと思うだけだ。けれども、私たちの人生の脚本を書いているのは一体誰なのだろう。
<コメント>「何年も出てこないと思っている」わけではないです。at odd intervalsは熟語。クライシスはちょっとわからないんじゃないかな。「使者」はちょっとわかりにくいかも。「思うだけだ」は少し考えすぎ。

14.
だが生きていくうえでは、ときおり、どこにも当てはまらないような人物に出くわすことがある。こういった人はトランプのジョーカーのように、思いもよらぬときに何度もひょっこりと現れるものだ。しかも、窮地に陥っているときに限って。映画では、このような人物は何の変哲もないようであって、実は変化をもたらしてくれる役回りとして描かれる。映画では、そのような人物をどのような場面で登場させるかは脚本家しだいだが、さて、われわれの人生のシナリオを書いているのは誰だろう?
<コメント>「何度も」ではないかな。というか、「何度も」を抜くととても良い感じになります。その次の行はなかなか良いです。どこかにふりがなを入れても良かったかな。

15.
だが時折、どのカテゴリーにも属さない人物が登場することがある。デッキから突然現れるジョーカーだ。何年かに一度、不思議なタイミングで、特に主人公が危機に直面したときに姿を現す。映画では、この手のキャラクターはただの凡人か改革者として描かれる。この人物が出てくるのは、脚本家が彼を登場させるからだ。しかし、人生の脚本家とは一体誰なのだろうか?
<コメント>「デッキ」はたぶんわからないと思います。僕なら「手札」とかやっちゃうかな。at odd intervalsは熟語。「凡人」ではないですね。
<余談>とにかくたくさん読んで、訳すことが大切だと思います。がんばってください。

16.
しかし生きていると、このどのカテゴリーにも当てはまらない人物と出くわすことがある。知り合いの中から長い年月を経て、たいてい大ピンチに突如現れる、気の置けない相手である。映画を見ていると、そういう登場人物は、まったく眼中にない人だったり、周りに変化を促す人だったりする。映画では、脚本家がそれを決めているのは言うまでもない。それでは、私たちの人生を左右しているものの正体とは?
<コメント>「知り合い」がちょっと意味不明。トランプのジョーカーのような存在。狂言回しなんだよねえ。「気の置けない」は意味が違うと思います。「眼中にない」のではないですね。最後の部分はやり過ぎ。
<余談>とにかく原文に対して正直に向き合うことですね。がんばってください。結局のところ、自分の問題として考えたくないんでしょうね。あるいは都合の良いように世界を見たいんでしょう。日本も貧富の差がものすごいことになってきたので、これから大変ですね。

17.
だが、人生には、こういう部類に当てはまらない人が関わってくることがある。何年もの間にわたって、決まった時ではなく突如現れる、しかもここ一番という時にたいてい現れるうっとうしい奴のことだ。映画では、この手の人物は五番目の男、もしくは変革者と呼ばれる。その人物が登場すると、ああ、出てきたなと観客にはわかる。というのも、脚本家がそう設定するからだ。ところで、私たちの人生のシナリオを書くのは誰なのだろうか?
<コメント>「うっとうしい」という価値判断はないと思います。「変革者」だと少しイメージが違うかな。「ああ、出てきたな」とわかるのではなくて、その登場人物がそういう役回りだとわかる、かな。
<余談>はい、最終回です。勉強になったのであれば良かったです。またどこかでお会いしましょう。

18.
時として、このどれにも当てはまらない人物が人生に登場することがある。それはトランプのカードから数年ごとに突如として飛び出してくるジョーカーであり、たいてい危機的状況の時に限ってやってくるものだ。映画の中では第五の元型、あるいは変化をもたらすものとして知られている。映画でそいつが登場すると、それがだれか分かるようになっている。なぜなら脚本家が登場させたのだから。でも、自分の人生の脚本はいったい誰が書いているのだろう。
<コメント>「数年ごとに」というと定期的な感じがしますが、at odd intervalsは不定期なんですね。「第五の元型」はちょっと違います。「そいつ」は少し乱暴かな。

19.
だが時に、そんなカテゴリのどれにも当てはまらない人物が登場することがある。トランプのジョーカーのような存在。忘れた頃にひょっこりと現れる。しかもたいていは何か切迫した状況に。映画などでは、このような登場人物は「五番目の男」とか「チェンジエージェント」などと呼ばれる。映画の場合、この人物の登場は脚本家が意図したものだ。しかし我々の人生においてはどうだ?
<コメント>うーん、いい感じなんだけど、最後の文章にもう一工夫欲しかったかなあ。「私たちの人生の脚本を書いているのは?」とか。
<余談>終わりです。ありがとうございます。ぜひデータベースとして活用してください。自分としては、時評や本の選択まで含めて一つのパッケージと考えていますので、ぜひ今のうちにPDFのダウンロードを。

20.
だがときどき、こうした分類のどこにも当てはまらない人物が人生に登場する。この人物はカードの山から不意に出てくる潜むジョーカーのようなもので、不規則ながら何年かごとに姿を現す。たいていは、差し迫った状況の最中にだ。映画では、この種のキャラクターは特別な意味のある、状況を変える役として知られる。彼がスクリーンに現れたら、観客は脚本家が意図的にそうしたのだと分かる。しかし、我々の人生の脚本など誰が書いているのだろうか?
<コメント>カードよりは「トランプ」か「トランプ・カード」かな。「潜む」はちょっと浮いています。後半は悪くないです。
<余談>どうもありがとうございました。

ページ: 1 2 3 4 5